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古代史:開封から日本へ (5)

中国最大のコミュニティであった開封という地名は古代イスラエル人が命名したと私は考えています。開封は「封土を開く」と書き、封土とは fiefdomで特定の集団が管理する知行地や地域を意味します。神が与えたイスラエルの民の知行地の意味ですね。

当時の都であった洛陽は黄河の支流の洛水が近く日差しがたっぷりとある住みやすい場所で、華北の経済力と後に秦の首都咸陽が置かれた渭水流域の軍事力の恩恵を受ける場所です。そこから、わずか200km東に行った地が未開の地であるはずもありません。そのに開封という一大コミュニティを設置したことで、中国の情報や食物といった物資を揃えながら「陽出ずる国の日本」に向かう準備ができるわけです。

この開封には、数百年の後に、バビロン捕囚の後に東に逃れた南ユダ国のユダ族やベニヤミン族と各部族に付き添う祭祀のレビ族の残りもやってくることになります。

日本へは、大きく言えば3回に分けて移住します。

出雲族

まず最初は、アフガニスタンからの先遣隊と同様に、戦いに向いているガド族やゼブルン族の精鋭が選抜されます。さらに、日本に渡った後は各地をいろいろと調査する必要があるので、学者肌のイッサカル族も同行したはずです。半分くらいの部族で構成されたのだと思います。
アッシリア捕囚時代に北イスラエル10部族が2万人〜3万人と言われています。旅の途中も、宿営地で休憩しながらなので人口は増え、当時の開封には5万人〜7万人程度住んでいたと考えられます。私の住んでいる神奈川で言えば逗子市とか東京都の福生市くらいの人口ですね。これだけの人たちが集団移住するのはいかに大プロジェクトだったかということが分かります。先遣隊が半分とするとやはり2万人程度は1回目の先遣隊として日本入りしたことになります。当時の縄文人の人口は2万人〜3万人という推測があるようですので、ほぼ同数の渡来人が日本に入ったことになります。日本に渡る海流と潮の流れを詳しく季節ごとや時間ごとに詳しく調査し、それに対応できる造船技術や航海技術も準備期間の間に蓄積したと考えられます。そして、朝鮮半島かまたは中国上海南部の寧波から船出して出雲にたどり着きます。紀元前500年頃だと私は考えています。

すでにお分かりのように、この先遣隊が出雲族で出雲国を形成します(出雲大社)。この中からリーダーの大国主命(オオクニヌシ)が登場します。因幡の白兎伝説では現地人から虐められていた白兎を助けた縁で、美人で名高い八上比売(ヤガミヒメ)と結婚します。多分、この女性は縄文人なのでしょうね。新天地で縄文人と融合して出雲国を形成しましが、この結婚も離婚で終わり縄文人社会との対立の火種は残ったかもしれません。大国主をリーダーとする出雲族(イスラエル先遣隊)は各地を調査します。諏訪の地でも大きな拠点を形成していきます(諏訪大社)。諏訪の地は縄文人社会の重要拠点です。神津島と並んで何千年も交易で栄えた黒曜石の産地だからです。この段階で、出雲族先遣隊による西日本の調査はほとんど完成したと考えられます。

天孫族

第二陣は、開封に残った数万人の本隊が移住します。時代は、紀元前500年頃から紀元前300年頃のどこかだと思います。この時代は、日本でも縄文時代と弥生時代の境目です。先遣隊の出雲族がすでに稲作を始めていたものと考えられます。
この時代の中国は、戦国時代です。開封にコミュニティを形成してもいつまでも安全とは限りません。この頃に盛衰した南の長江(揚子江)近くの国があります。呉越同舟で古事成語になったです。呉は周王朝の長男の系統で、越は百越系すなわちベトナム系です。越の人々は縄文人のように入れ墨をした民族ですが、銅の生成に優れ戦艦も持っていました。この呉越の国々とも提携したように思えます。
北イスラエル王国の王族であったエフライム族がリーダーで、レビ族は三種の神器を運び入れます。三種の神器である八咫鏡・天叢雲剣(草薙剣)・八尺瓊勾玉です。これは失われた聖櫃(アーク)に納められたそれぞれモーセの十戒の石板モーセの兄のアロンの杖マナの壺と考えられます。マナの壺はイスラエルの民を飢えさせなかった食糧に関係する宝で、八尺瓊勾(やさかのまがたま)は大きく長い勾玉(装飾品)という解釈なので、ちょっと意味不明です。しかし、これらの三種の神器が王権を象徴するアイテムのレガリアの一種だったということは間違いありません。日本に着いた正統な王族であるエフライム族ですが、これが天孫降臨神話として、天照大神(アマテラスオオミカミ)と弟の素戔嗚尊(スサノオノミコト)瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)神武天皇とつながっていきます。その過程での、出雲の国譲り神話は、先遣隊のガド族らからエフライム族への王権移譲を表していると考えられます。

徐福と秦氏

第三陣は、秦の始皇帝と関連しています。
秦は北西の辺境地の甘粛省から起こり、渭水沿いに東に勢力を拡大した国でBC778年に紀元があるので、もともとはイスラエルとは何の関係もない夷狄の蛮族でした。その後に戦国七雄のうちで最強国となり、BC221年には秦が中国を統一し、秦王の政は始皇帝と名乗ります。この蛮族がイスラエルの末裔の羌族であったと思います。戦線拡大の途中からは鉄製の剣を使いだし、金属製の弓まで使用しました。しかし、わずか15年後のBC206年に秦王朝は滅亡します。
秦の制度は優秀で、その後の漢王朝に継承されます。皇帝の創始、行政区分や制度、通貨統一や度量衡の統一、万里の長城の建設、今でも印鑑で使われる篆書体も秦のものです。ユネスコ文化遺産でもある壮大な兵馬俑がある始皇帝陵をみても当時の文化レベルを窺い知ることができます。

この始皇帝は紅毛碧眼であったとされています。また真偽は不明ですが宰相呂不韋の子であるとの説もあります。呂不韋は商人の出で富を築いた後に宰相となりました。始皇帝はイスラエル人だった可能性が高く、その場合は、バビロン捕囚後にやってきた南ユダ王国のユダ族だった可能性が高いと思います。呂不韋も同様だと思われるのですが、傍証が少なすぎます。

この始皇帝の時代に「東の蓬莱山にあるとされる不老不死の妙薬を探す」よう徐福が任命されます。そして、徐福の大船団は日本に渡り、中国には戻りませんでした。日本各地の至る所にやってきたという徐福伝説があります。

明らかにおかしいのは、始皇帝が即位したのが9歳の時で滅亡した際は24歳です。そんなに若くして不老不死を求めるでしょうか?つまり「統一したものの漢民族はこのイスラエル人の王朝に強い反発心を抱いている。一丸となって攻められたらたまったものではない。今のうちに、親戚筋のエフライムたちがいる日本に逃げよう。大義名分の口実としては”妙薬を探しにいく”として大移動させよう。」ということだったのだと思います。ちなみに徐福ヨセフの名を当てた名前です。徐福はひょっとしたら一人ではなく、日本に移動する集団名を徐福と名付けたかもしれません。というのも徐福が何回も日本に渡ってきた可能性があり、ユダヤ教ではなくキリスト教の景教も持ち込んだ可能性があるからです。古代キリスト教が成立するにはこの時代だけで考えていては200年以上待たなくてはならないからです。

いずれにしても、この第三陣の徐福集団が日本では秦(はた)氏となります。全国にお稲荷さんがありますが、稲荷神社を創設したのが秦氏です。秦氏はユダ族ですが、すでに天皇制を敷いているエフライム族の権力を奪おうとはせずに、あくまでも協力者の関係を維持します。これは、ユダ族が王国を建設するのはあくまでも中東カナンの地であるというこだわりであると私は考えています。







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