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蝶々結び


唐突だけれど、わたしは蝶々結びが好きだ。

ただ紐を結ぶだけの作業に、美しさを纏っている。初めにこの結び方を考えた人は、とても風流な人だと思うし、一本の線をこんな形で留め置くことに、人間の知性と感性が宿っているような気がしている。


どうして急にこんなことを言いだしたのかというと、アルバイト先はギフトも多く取り扱い、ラッピングをよくするのだが、今日は父の日の前日ということもあってかその量がいつにも増して多かった。ほとんどのラッピングにおいて蝶々結びはつきものだ。綺麗に紙で包んだうえから纏うように、あるいは透明な袋の口を結ぶように。


ラッピングをしながら、この工程が好きだなと思った。


思えば、幼い頃から蝶々結びに強い憧れを抱いていた。

小学生のとき、同級生がちらほらとマジックテープでバチっと止める運動靴から靴紐で調整するスニーカーへと乗り換えていく中、わたしはそれを履きたくて何度も母におねだりした。

靴紐を結びなおすとき、くるくるっと無造作に、されど完璧な形で蝶々をつくる必要があるあの靴は、大人びて見えていて、それを履くことが大人になることに思えたのだ。

紐靴のために蝶々結びの練習をした。体操ズボンの腰ひもや毛糸、コンセントなんかでも。左手で作った輪っかを縦に一周して潜り抜けるその瞬間が最大の難所で、難解な作業で出来上がったわりに、すぐに解けてしまうことに、諸行無常の理を初めて知ったような気がする。


やっとの思いで蝶々結びを体得し、わたしも次は紐靴がいいな、と母に言うと、母は、あなたには向かないわ、と言った。

すぐにサイズが合わなくなる足に合わせて、靴屋さんへ出かけるたびに、決まってそう言われた。あなたはめんどくさがり屋だから、こまめに靴紐を結ばなくなるわ、と。


初めてわたしが靴紐を手に入れたのは小学6年生になってからだった。

きしめんみたいな平たい紐ではなく、むちっとした、太く丸い紐で、思っていた形ではなくて、時間をかけて結んだ蝶々は、どこかバランスが悪く、ふてぶてしく、格好が悪かった。


気に入らないな、と思った。

それはもう活発に、外で遊ぶタイプだったし、そのうえ通っていた小学校は土足で教室に上がるシステムのなか、毎日朝から晩までその靴で生活をするわけなのだけど、案の定朝結んだっきりなはずもなく、何度もほどけるそれを結びなおすことに、だんだんと飽きが生じた。


数か月のうちに、何度も踏まれてボロボロになった靴紐は、その半分を失ってしまっていた。

蝶々結びも叶わないほどの短さになってしまって、結局履かなくなったし、紐靴には素早く結べる技術と、解けないように結ぶ技術と、そして何より結ぶことを厭わない気力が必要なのだとしみじみと実感したのだ。


結局、その後も何度も靴紐をだめにした。

初めの1足から10年経ってやっと、靴紐の長さを失わずに履けるようになった。

解けることもあまりないのだけれど、ときどき結び直すとき、手元も見ずに僅か数秒で結んでしまえるのが毎回嬉しいし、簡単に解かれることのないわたしの蝶々はちょっとした誇りにすら思える。

蝶々結びをしているわたしが好き、みたいなところがあるので、靴紐がゆるんで靴にわずかなゆとりが生まれる瞬間にはとても敏感で、すぐさま蝶々を結びなおす。

連続していた時が断絶されるような、ゲームでいうところのセーブポイントのような気持ちで、毎回結ぶのだ。


靴紐に限らず、蝶々結びはすべてそう感じていて、その工程を通るたびに、晴れやかな気持ちになる。

その瞬間から、世界が新しくなるような気がしてしまう。


それに何より、蝶々結びはその形がとてもきれい。

シンプルな線を複雑に結びゆく、繊細なシルエットときゅっと固く閉じた結び目の両極端が存在するところが、とても特別なものに感じるのだ。


あらためて、蝶々結びを発明した人はノーベル賞をあげたいし、それは無理でもわたしは毎回蝶々結び発明家に敬意を払いながら、蝶々結びをしたいと思う。


明日もきっと多くのギフトに蝶々を添えることになるだろうけれど、そのたびにちゃんと。




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