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トーストとミルクコーヒー

つい数日前におじいちゃんが亡くなった。

コロナもあって最後の瞬間には立ち会えなかったけど、家族葬で見送った。
実家に帰る前に職場の人がコロナ陽性かもしれないとい話があって帰ることを躊躇したけれど、結果的にはPCR検査を受けたうえで葬儀にも参加できた。

その時、このまま葬儀にも立ち合いができずお別れになってしまうことになるのかなとも思った。

「孫として最後に見送れないのは孫として不幸モノ?」

「他の親族からはなんて思われるんだろう」

「でもコロナ持って帰ったらそれはそれで…」

コロナだから仕方ないなという免罪符のような理由もあったし、結局参加できたから良かったんだけど。

葬儀も終わって一息ついたときに

「でも葬儀に出れなかったら後悔してた?」

「(いろいろな理由があった)見送ってもらえない人は不幸なのか?」

という疑問が自然と浮かび上がってきた。

というのも現職の後見人という仕事をしていると日常的に人の死に直面する。

ある高齢者施設の管理者の方との会話を思い出した。

管理者「このAさんは家族はいるのに一回も面会に来なければ連絡もない」

私「Aさんは当法人が後見人としてついた時から家族とのやり取りはなく、子供達からは関わりたくない(死んでも連絡はいらない)と言っているようです」

管理者「そうなんですね、親の最後にも関わりたくないってどんな関係性だったんだろうか、私にとってはありえないですし、親なのにって思ってしまう」

私「そうですね、私もこの仕事をする前までは同じように考えていたと思います・・・」

といった会話だったのだが、この管理者の感覚でいえば親の死に目にも会わなくていいと言っている家族への不信感、見送ってもらえないAさんに対しての同情みたいな感情が伝わってきた。

私自身もこの仕事をしていなければ同じような感覚だったと思うし、自然な感情だとも思う。

でも会えない事情や合わない理由はそれぞれあって、Aさんの記録を読み返すしていくと家族が会わないと選択していることにも納得できた。

じゃあ、見送ってくれる家族がいないAさん不幸なのか、可哀そうな人なのか。

誰かが言っていた。

「葬式の時に流れる涙が多い人は生前多くの人に愛されていたという証拠」

確かにそうだと思うし、私もなるべく多くの人に悲しんでほしいなという思いもある。

でも今回おじいちゃんの葬式に出れなかったとしてもおじいちゃんへの愛情は確かにあるし、会えない理由がそこにはあるはず。

最期の瞬間だけでその人の人生、周囲との関係性まで推し量ることができるのか。

ソーシャルワーカー(後見人)という仕事を通して最後の瞬間に立ち会う機会も増える中で感じたことだ。

今日のお昼は、おじいちゃんと一緒によく食べていたトースト(バターとざらめの砂糖をまぶしたやつ)とミルクコーヒーをなんとなく食べてみた。

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