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慈悲的差別の罠:女性への思いやりは容易に構造的差別に転化する

近年、慈悲的差別という言葉が時たま話題になるようになった。慈悲的差別は「男は女を守るべき」という態度に、暗に男が「保護者」で女が「被保護者」という構造が含まれているという指摘である。慈悲的差別は女性からすればタダで援助を受けられる構造にあり、フェミニスト寄りの自認を持つ人でも目くじらを立てないことが過去の研究から明らかになっている。

女性は慈悲的差別を取る男性について「恩着せがましい」「パートナーを弱くさせる」と見ていたものの、同時に「魅力的」だと感じていたことが判明しました。……フェミニスト度合いが強い人……それでもなお男性を「魅力的」と評価していたとのこと

この傾向は、私が日本のSNSで観察していても感じるところであり、大学でフェミニズムを学んだような人でも「男のほうが力が強いのだから力仕事は男がするのが適材適所だと思う」という発言をしているし、フェミニズム入門風の体をしたyoutubeビデオでも「男の人に守られたい奢ってもらいたい」といった解説がなされている。

バリバリ働きたい男の人、奢りたい男の人を否定するものでも無くって、女の人も男の人に守られたい奢ってもらいたい立てたい、それを否定するわけじゃなくて……
――【性教育YouTuber】シオリーヌ「フェミニズムってなんか怖い?と思っているあなたに届け。

以上のように、男が女を守る、施すという行為は、それがジェンダーロールを強化するものであっても問題視さない傾向にある。実際、甘やかされ過小評価されていると自覚していてもそのような男性を好む。慈悲的差別に反対する人でも「男女平等なら男女同責であるべきだ」的な規範論や精神論に近いものを論う人が多く、有害だとは見なされていない。

しかし、これは大きな間違いである。慈悲的差別概念の提唱者のGlickとFiskeによれば、慈悲的差別は家父長制・ジェンダーロールを支持する差別構造の一側面である。筆者も近年、慈悲的差別が性役割分業を強化する役割を果たし、医学部の女子差別などの直接的原因となり、究極的には男女間の所得格差の大きな原因ですらあると理解するようになった。

本稿では、「慈悲的差別」について、フェミニストを含む女性が発する「男は女を守り助けるべき」という規範的主張のうち、それによって職業や所得の男女格差を増大させるものの総称として定義した上で、女性の社会的地位を上げていくためには、そういった意見を抑えることが必要であることを説明する。

1. 慈悲的差別は性役割分業を生む

 1a. きつい仕事と職域差別、医大女子差別事件

「きつい仕事は男が担当し、女はそれをしなくてよい」といった言説は男女問わず発せられるものであり、フェミニズム寄りを自認する女性でも言うことがある。しかしこの傾向は、男女で取り扱いを変える差別として表出し、その結果男女格差やジェンダーギャップを悪化させてしまうこともある。これを単刀直入に描き出しているのが、次の高田朝子氏のコラムである。

女性達は女性優遇策の流れの中にいても、「今のままでよい。昇進しても仕事がきつくなるだけで旨味がない」と冷ややかである……会社は女性活躍推進の方向に向かっていても、「女性にこんな仕事をさせられない」という中年男性からの声である。修羅場、即ち肉体的にきつい仕事、精神的にきついと思われる仕事を女性にやらせることに逡巡するらしい。紳士的な配慮と本人達は思っているかもしれないが、実は無意識に女性の腕や能力を信用していないのかもしれない……修羅場は結果がどうであれ、自分の腕と経験を磨く成長のための機会である。管理職は多くの修羅場を経験し、自分の実力を高め、……ところが現状において男性は、女性にきついことをさせたらパワーハラスメント……「忖度」し修羅場を潜らせたがらない。この無駄な思いやりが女性達の好機を奪っていることに気がつかない。
―― 高田朝子「しなやかな女性リーダー」という言葉こそが女性の活躍を阻んでいる:日本企業で女性管理職が増えない理由

「(納期等が)きついが実入りの大きいポストが開いている。候補者の実力は似たり寄ったりである。誰を昇進させるか?」このような状況の時、「女性を思いやり、きつい仕事は男性がやるべき」という《善意》の意識が浸透していれば、きつい仕事を(昇進に関わるものだとしても)男性に割り振るということが起きてしまうだろう(2020年女性管理職30%目標が出されてからは、女性が管理職への昇進を断る比率が高いことも問題になっているが、これはまた別の話である)。

ただ、以上のような説明では模式的にすぎ「屁理屈だ」と思う方もいるかもしれない。そこで、このような慈悲的差別が実際に大問題になった例を紹介しよう。それは、東京医科大学女子差別事件である。この事件では、大学が女性受験者の得点を意図的に引き下げており、あからさまな女性差別として世間から指弾された。しかし、こと勤務医業界にあっては「やむを得ない」という論調が多く、女性医師でさえ、女性医師が産休を取っている間に当直をやっている男性医師がいなければ患者を受け入れる体制ができない、一刻を争う患者を見捨てることになってしまうという趣旨の、女性差別を擁護するような発言をするほどであり、世論と勤務医の意見は大きく割れた。

なぜ勤務医があからさまな差別事件を擁護したかと言えば、実はそれがもともと女性への配慮から来ていたためである。女性医師は、体力勝負になりがちな手術の多い科を避けたり、ワーク・ライフ・バランスを重視して時短勤務を選択しがちなど、「きつい」仕事を避ける傾向がある。とある病院では、こういった女性医師の求める働き方を提供すべく、男性医師が意思統一して女性医師の育休取得・育児退職を受け入れ応援するという《善意》の立場を取り、「全国から女医の応募が断ってるくらい多い」と誇っていた。

しかし、このやり方が実は女性差別の原因となっていたのである。女性医師が忌避する「きつい」仕事――外科や救急、夜間当直、時短対応のシフト変更など――を穴埋めする、女性医師をサポートする男性医師をどうしても必要とし、その結果女性比率が必ず一定以下になってしまう問題を裏に抱えていた。前述の「全国から女医の応募がある」病院の医師は、当該事件に際し「綺麗事では済まされずリスク分散として彼女らと働くには一定の男性医師数が必要」と吐露した(※なお先に断ると、当該医師はこの件でおこった議論以降は、男性の育休取得など《正しい》方向に転換している)。

「男のほうが力が強いのだから力仕事は男がするのが適材適所だと思う」というような主張は、生まれつき不利なマイノリティには下支えを入れるべきというEquity論(下図左)と親和的、ないしその一部を成す主張である。

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この理念自体は理解できるという方は多いだろう。問題は、そこ(図中)で下支えをしている「踏み台」が何でできているか、ということである。医師のシフト調整の場合、「踏み台」は男性医師であった。人が「踏み台」になるパターンは、マイノリティが数的に少ないのであれば問題なく成立する。しかし、女性のように「人口の半分を占めるマイノリティ」の場合、ちょっとやそっとの調整では「踏み台」の頭数を調達できず、構造を変える必要が出てくる――例えば1人の女性を2人の男性が交代でサポートし、その実現のために男女比を一定に保つというような、統計的差別を伴う形式で実現されることになる。東医大女子差別事件は、このように、Equityを実現するというマイノリティに配慮するための調整の過程で起こっており、敵意ではなく《善意》を動機とする慈悲的差別としての側面があった。言い方を変えれば、配慮と排除を明瞭区別できなかったということである。

(1) 女にXという仕事はさせないという敵対的差別
(2) 女はきついYという仕事をしなくてよいという慈悲的差別
のうち、(1)は問題視されても(2)は見逃されやすい。しかし本質的には「女に特定の仕事はさせない」という点では変わらない。東医大女子差別事件は、医師コミュニティの内部から見れば(2)の慈悲的差別であったが、事情を知らない外部の人間は(1)の敵対的差別として認識し、それにより初めてこれが「問題のある女性差別」として認識されたという状況である。このような状況は医師に限ったとではなく、もっと普遍的に存在する問題なのは高田氏の記事にもある通りである。

なお、現在は女性医師の働きやすさと男女平等を両立するため「男性も働きやすく」「誰にもきつくない」という方向が主流となっており、これはこれで正しいと筆者は考えている。産婦人科など患者が女性医師を求め、女性医師比率が高まった科で女性医師の働きやすさを優先した結果、産婦人科患者の救急外来が統廃合で減るかもしれないなど別のトリレンマが発生しているが、それはまた別の話となる。

 1b. 育休の穴埋めと男の役割

筆者は、女性の社会進出について論じるため、以前に資生堂ショックを紹介した。これは、女性だけの職場において、既婚女性の産休の穴埋めが未婚女性に集中してしまい、不満を持った未婚女性によるマタハラまがいの揉め事が起き(その結果育児支援策が見直された)たという事件である。

筆者がこれを紹介した際に意外だったのは、「女のせいにするな、男は何をやっている、男が穴埋めすればいいだろう」という意見が多く来たことである。そう言ってきた人にはそれが自然な感覚だったのかもしれないが、実のところ、これは最悪の選択肢である。

「女性の育休の穴埋めを男性がする」だけの関係になるとどうなるか――「男は仕事、女は育児」という役割が固定されてしまうのである。穴埋めをしている男性は一見女性の働きやすさを助けてるように見えるが、大局的には男女格差を固定する役割を果たしてしまい、慈悲的差別となっている。「女が主婦化・育休・時短で働く時間を減らしたぶん男が穴埋めして働く」という性役割分担は、日本における所得の男女格差の最大の原因であり、男女格差を問題視するならば真っ先に廃絶しなければならないものであり、ゆえにこれが最悪の選択となる。

資生堂ショックのような状況で「男がなんとかしろ」というならば、政治的に正しい対処法は、育休をとろうとしている女の代わりにその夫が育休を取り、妻がその分外で働くことである。男が育休を取りその穴埋めさせられる独身女性が内心ブツクサ言うといった状況が生じうるようでないと、男女格差は解消しない。

すなわち、育休というのは制度自体は特に性を問わない男女平等なものであり、女性が退職せず復帰できることを支援する制度だが、育休の利用にあたって「仕事を肩代わりするのは男の役目」「女性が優先的に育休を取得するために男性が働け」という主張になってしまうのであれば、それは(発言者の性別に関わらず)ジェンダー分業を促進している。そしてそれは「育休中の女性を男性が助けよう」という《善意》の慈悲的差別からそれが出てくることもあるのである。

 1c. 男性が女性を経済的に支える行為

世の中には、「男性は女性を経済的に支えるべき」とでも形容すべき風潮が存在している。例えば、婚活などで女性は男性の年収を気にする(が男性は女性の年収をあまり見ない)傾向は明瞭に観察されるし、女性対象の意識調査では夫婦の働き方について「女性が主に稼ぐ」という選択肢がそもそも存在しないことが多い。SNS論壇でも「自分が大黒柱になって夫子供を食わせる」ということを積極的に言える女性は殆ど見ないのが現状である。

このような傾向は、差別や格差をなくすという目標にとっては、非常に邪魔である。まず端的な例として、先ほどの医師の例を考えよう。女性医師が時短勤務を好むのは、女性医師が家事育児を担当することが多いためである。これ自体は女性差別的であり、「女は家事育児をしろ」という文言は古典的な敵対的差別である。しかし、これを慈悲的差別で言い換えた形――「出産育児という女性の大事を夫が経済的に支えるのが当然。夫は妻が休業中の所得を補填できる稼げる人であるべき」という主張は、「男は外で稼ぎ、女は家事育児」と同等のことを言っているにも関わらず、女性側からも一般的に出てくるし、現実の行動としても表れる。女性医師は「自分が仕事、夫は家事育児」という分担がしやすい職業であるにも関わらず、家事育児をしてくれそうな配偶者を選ぶ女性医師はほとんどいない。

女性はその配偶者である男性の所得が高いほど主婦化する傾向にある(ダグラス=有沢の法則)が、所得の男女格差の主因が女性が結婚出産を機に退職・時短を選択することにあることを考えれば、上述のような差別(慈悲的差別を含む)は女性の主婦化経由で所得の男女格差を作ってきた中核的原因であるといってもよい。そこまで行かずとも、男性は女性に経済的に支えるべきという考えが当然視される限り、男性はその義務を果たすため女性より稼がねばならないという意識を持ち、それは総体として所得の男女格差を拡大させる動機付けとなるだろう。

フェミニズムが「バリバリ働いて奢る男、男に守られて奢ってもらいたい女を否定するものでもない」のならば、所得の男女格差やジェンダーギャップの縮小を同時に掲げるのは難しいだろう。それらは相克関係にあるのだから。

2. 慈悲的差別は近視眼的には“善行”であり、大局的に見たとき構造的差別を生む

 2a. 慈悲的差別は個人にとって有利である

「男性は女性を保護する義務がある」という考え=慈悲的差別は、それがジェンダー分業を促すにも関わらず、フェミニストを自称する女性ですら支持しており、女性はそのような慈悲的差別をする男性を選好することも知られている。

ただ、女性が慈悲的差別を好むのはある種致し方ない側面はある。なぜなら、ある一人の女性個人にとっては、慈悲的差別を受け入れるほうが有利だからである。

例えば、ある一人の女性にとってしたら、所得のある男性と結婚するほうが有利に決まっている。単純に経済的により豊かな生活が送れるだろうし、「産後の肥立ちが悪くて復帰が難しかったら?」といった不安も解消されるだろう。ある一人の女性医師にとってしたら、自分のワークライフバランスを周りにサポートしてもらえる(ことを選択可能である)ほうが有利に決まっている。育児に手をかけたくなったら時短できる可能性を留保しているほうが、人生の選択の幅は広がる。それは理解できる。

ただ、女性の多くがその決断をすると、それは結果的に男女格差を再生産していくことになる。「男性は女性を経済的にサポートし、なんなら女性が仕事を辞めても養わなければならない」という規範があるならば、必然的に「男が働き女は育児」という夫婦が主流になっていく。「女性医師の働き方を男性がサポートしなければならない」という規範があるならば、必然的に「女性医師を採ったら女性医師をサポートする男性を必ず採らなければならない」という統計的差別をする病院が増えていく。

女性個々人が自分にとって望ましい結果を期待して決断をしたとしても、全員が同じ行動をとることで社会全体での構造的な男女格差は拡大する。フェミニズムが目標とするような「男女格差をなくし、女性の選択の幅を広げる」ことを目標にするならば、個人の選択の幅が広がる一方で社会全体として男女格差が拡大したり統計的差別が蔓延するような事態になるのは、合成の誤謬と見なすこともできる。

合成の誤謬は、解決が難しい。例えば、この記事を読んだ女性が、この記事に納得して頭で理解したとしても、いざ自分のこととして決断する時には「女性全体のために自分が損をしてもかまわない」などという考慮をするのは非合理的であるし難しいだろう。「女性医師が働きやすい病院づくり」をしていた男性医師たちは、女性をサポートをすることで女性が医師になることを応援し、男女差別をなくそうという《善意》で動いていた。ただ、その心意気が構造的に男女差別を招いてしまうというカラクリに気が付いていなかった。

ゆえに、この問題については直感で発言してはならないのである。直感で発言すれば、女性は慈悲的差別を好むし、差別に反対する男性すら慈悲的差別を行ってしまい、結果的に社会全体での男女格差や男女差別構造を強化してしまう。男女格差や男女差別を本当になくしたいと考えるのならば、直感をぐっと抑えて構造を考える必要がある。

 2b. 慈悲的差別が親切と区別されるのは、善意や悪意ではなく、構造である

慈悲的差別の話題では、「慈悲的差別と“本物の慈悲”は区別可能である」「慈悲的差別には差別心や下心がある」という理解の仕方をしている人が多く見られる。例えば、次のような言説はその良い例だろう。

「女性は守られるべき」という押しつけと、騎士道的な親切についての考察です。
……エスコート的な親切行為と慈悲的差別の混同……両者は似てて被るけど分けて考えるのが自然です。
……性別関係なく「弱いものを助ける」に読み替えてみるとスッキリしそうです。「子供や怪我人にも配慮ある人」などいろんなタイプがいるはずです……分け隔てなく優しい人の親切は、素直に受けちゃえばと思います。

これは、典型的な勘違いである。分けて考えることが出来ないから問題なのである。高田朝子氏の論をもう一度振り返ってみよう――「肉体的にきつい仕事、精神的にきついと思われる仕事を女性にやらせ」ないことは、「紳士的な配慮」であり、同時に胃が痛くなるような修羅場をくぐり評価と経験を得る機会を奪う差別である。両者は不可分であり、同じことの別の側面である。

もちろん、「個々人の希望に沿って修羅場をくぐりたい人にはその機会を与え、望まない人には慈悲的に扱うべき」といった“代替案”も出るだろう。しかしそれもまた格差の原因となる。修羅場から降りる選択権を女性に優先的に与え行使させるならば、社会全体の平均として女性の社会的地位は低いままに留まる。女性に優先的に“慈悲的配慮”をするということは、女性を優先的に出世競争から降ろしているということと同義であり、結局《善意》の措置が格差を生み出すという構造はそのままなのである。

日本は女性の社会的地位を指標化したジェンダーギャップ指数が悪いことが特に問題視されるが、「女性の希望をなるべく叶える。女性に配慮して個々人の希望を優先する」という配慮さえもジェンダーギャップ指数を悪化させる。差別的意思だけが差別なのだ、という議論は無意味である。

また、先ほど例に挙げたブログでは、女性だけでなく子供にも配慮できるなら下心からの差別ではない、という判断基準を提示していた。まずもってこれが勘違いである。なぜなら、子供はすでに「慈悲的差別」の対象だからである。

例えば、民法第五条二項では未成年者が結んだ契約は取り消し可能であると定めているが、これは判断能力の低い未成年者(子供)を保護するためである。しかし、裏を返せば未成年者は契約を結んでもいつ取り消しされるか分からない存在であり、事実上判子をつくような契約(例えば家を借りる)に応じてもらえず、法定代理人(典型的には親)なしに一人で行うことが出来ない。子供であれば結んだ契約を取り消すことが出来るという慈悲と、子供は一人ではまともに契約行為をさせてもらえないという差別は、表裏一体、同じものの裏表の関係となっており、「慈悲的差別」構造の模式的例とすら言える。ただ子供や老人の場合は一生のうちいつかはなるから等の理由でその差別が許容されているに過ぎない。

もし慈悲的差別と親切心を区別したいならば、その境界を定義するのは構造にすべきである。慈悲・親切においてサポートする側・される側という役割分担が固定的であるならば、そこから「そういう役の人」という差別が生じうる。完全に一過性であり役割分担や関係性が後に残らないものならば、それは格差や差別という構造的問題を後に残さない。ただ、完全に一過性であるという指標も、なかなか見つけづらいものである。

3. 女性たちよ、もやもやを超えよ

ここまで長々と読んでいただいたが、もやもやした読後感を持っている方も少なくないだろう。この項では、「女性個人にとって得になることを女性全員がやると、結果として女性という属性全体を不利にする差別や格差を招来する」というアンビヴァレンスが存在することを論証してきたからである。理解してすっきりするという類のものではなく、理解するほどもやもやする類の事項である。

世の中には、この類の「個人にとって良いことを全員がやると全体では不幸になる」といった問題は少なからず存在しており、「共有地の悲劇」や「囚人のジレンマ」として知られている。これらの先例が教えてくれるのは、ちょっと我慢してルールを変え、「個人にとって良いこと」を積み重ねると全体にとっても良いように構造を作り替えることが解決策である、ということである。貴方が男女差別、男女格差は解消されるべきと考えているならば、少々のもやもやを抑えて、ルールを作り、構造を変えていく必要があるのだ。

また、冒頭の例に示したように、このような傾向はフェミニストを自称する人でも、あまつさえ「フェミニズム入門」的なビデオでさえ見られる。SNS論壇では「男社会が引き起こした問題なのだから男が何とかすべき」と主張する自称フェミニストもザラにいるが、こういった男性依存的な、男性の助力を待つ態度は、現実をフェミニズムの目標から遠ざからせるものだと理解して、襟を正すべきだろう。


追記

本稿の初稿公開後に、下記のような指摘をいただいた。現在はこの批評に基づき、慈悲的差別を「フェミニストを含む女性が発する『男は女を守り助けるべき』という規範的主張のうち、それによって職業や所得の男女格差を増大させるものの総称」と定義して想定していた批判対象を明示した。このほか、格差を「原因によらず発生する属性間の統計的違い」、差別を「取り扱いの違いであり、結果として格差を生じさせうるもの」と定義づけたうえで両者を峻別してリライトした。


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