犯罪者と猫

「これから私は、生まれて初めて本物の犯罪を犯す」
  車を降りた絵真(えま)は麻のワンピースのシワを伸ばしながらゆっくりと息を吸った。
そして、バール、金槌、ガラス切り、ガムテープ、軍手、ゴーグルを入れたリュックサックを後部座席から引っ張り上げた。
家宅侵入罪、器物損壊罪、窃盗罪……。頭の中で罪名が鳴り響く。
都心を少し離れた田舎道は、梅雨明けから雨が降っていないせいか埃っぽく、丈高い欅(けやき)の葉がひどくくすんでいた。
早春には緑が滴(したた)って、冬の終わりを寿(ことほ)いでいたのにと、絵真は自分と賢斗(けんと)との関係を重ね合わせて、心がささくれ立つような気がした。
コンクリートの地面を日がな一日炙(あぶ)っていた夏の太陽が、ようやく西に傾き始めた。それでも未練たらしく山の稜線に半分隠れて、黄金色の鋭い光を投げかけている。その眩しさに、涼子は思わず目を細めた。
絵真は、狭くて急な坂道を上がったところに建つ今にも崩れそうな古家の前で、荒い息を整えた。
あたりに家はなく、似たような廃屋が坂の途中に一軒あるだけで、狐狸の里のような場所だ。
「私は今から犯罪を犯す」
 絵真は激しい動悸と暑さのためにめまいを起こしながら、窓ガラスにへばりついて中をうかがった。雑然とした部屋の中には衣服が散乱していて、ポテトチップスの空袋、割り箸を突っ込んだままのカップラーメンがテーブルの上においてある。ガラスを通して饐(す)えた匂いが漂ってきそうだ。
 リュックサックから取り出した軍手をはめ、ゴーグルをつけて金槌をつかんだ。ガムテープを窓に貼ろうとしたその時、近くで人声がした。二人連れだ。足音を立てずに梅の木の後ろに隠れた。手袋の中がじっとりと汗ばんでくる。
息を止めて身を屈めていると、声はだんだん遠くなり、やがて聞こえなくなった。
 再び窓ガラスに近づいてガムテープを貼ろうとして、ふと手を止めた。
もしかしたら、鍵を閉めていないところがあるかもしれない。案の定、建て付けの悪い裏口のドアを引くと、ギシギシと耳障りの悪い音を立てて開いた。
靴を脱ぐのももどかしく中に入って、部屋を見渡した絵真の視線をとらえたのは、壁を飾る去年のクリスマスの忘れ物だった。
金色のモール、トナカイの小さなぬいぐるみ、そして赤いフェルトでできた長靴が画鋲で止めてある。長靴の中には賢斗が作詞作曲した曲が収められたディスクが入っていて、それからしばらくの間、運転中の大切なお供になった。
 それを見た瞬間、初めて出逢った日の鮮烈な記憶がまざまざと目の中に映し出された。
「少女漫画に出てくるような人」
 それが賢斗だった。
 大学生の時に友人に連れて行かれた小さなライブハウスで、ギターを弾いていた彼に出逢った時「この人こそ私が待っていた人だ」と、直感した。
 涼しげに長く切れた瞳に見つめられただけで、雷に打たれたように背骨に沿ってビリビリと電流が疾り抜け、恋に落ちたのだった。
美しい線を描く眉、高い鼻梁、細く長いしなやかな指……、絵心をかきたてられるような美しい顔で、彼はささやいた。
「いつかきっと悲しむ人を癒すことができるような曲を書きたい。デビューできたら、ライブの時の最前列にいて欲しい」
その瞬間、絵真は物語のヒロインになった。
「私は彼のサクセスストーリーのヒロインを生きている」
幸せな恋の日々が始まった。
賢斗の薄く形の良い唇から発せられる言葉はまるで詩のようで、やることなすこと全てが、甘美で叙情的だった。
誕生日やクリスマス、バレンタインデーに、お花紙で作ったガーランドやペーパーポンポンで壁を飾り、風船を部屋中に置いてくれて、自ら作詞作曲した「絵真に贈る愛の歌」をギターを抱えて歌ってくれた。絵真は心のこもったサプライズに、いつも感動のあまり曲の途中で泣き出してしまった。
そして彼は、初々しいほど無垢でもあった。
「バンドのメンバーがお金に困ってるって言うから、有り金全部あげちゃったよ。カラオケ店のバイト代が出るまで無一文。しばらく家にあるカップラーメンと水で暮らさなきゃ」
笑った横顔は、その肌理(きめ)の細かい肌と同じく、針の先ほどの曇りさえなかった。
賢斗の家を出る時、玄関の靴箱の上にそっとお金を置いて帰ったが、もしかしたらプライドを傷つけたかもしれないと、あとで随分気に病んだものだ。
あれは去年の晩秋。寒い寒い日だった。冷たい雨がフロントガラスを叩いていたことを覚えている。
 仕事帰りに賢斗の家に行くと、彼は生まれたばかりの仔猫を抱いてスポイトでミルクをあげていた。家の近くの坂道の途中にいたという。おそらく母猫とはぐれたのだろう。
 「絵真は朝早いんだから、先に寝ていいよ」
その言葉に甘えて布団に潜り込んだのだが、夜中に目を覚ました時、卓上ランプの淡いオレンジ色の明かりに浮かぶ神々しいほどの端正な横顔が目にしみるようだった。
彼は、絵真にとってヒーローであり、世界で一番ピュアな人間だった。社会的に成功していないのは、この汚れた世界で生きていくにはピュア過ぎるからだ。
「私が彼を支えてあげなくては!」
絵真は、強くそう思った。
その気持ちが揺らぎ始めたのは、出逢って三年目、大手広告代理店に就職して二年ほど過ぎた頃だった。
人生で最も晴れがましい出来事の真ん中にいた。営業マンとして商品開発に関わっていた絵真のアイデアがクライアントの目に留まり、商品化が決定したのだ。
しかもその商品は激戦区の飲料カテゴリーで、まさか新人が選ばれるとは誰も思っていなかった。
社内で一日中「おめでとう」の言葉を浴びた絵真は、ふわふわと足が浮いているような気持ちで賢斗にLINEを送った。世界中の誰より、賢斗に祝って欲しかったのだ。
賢斗からはすぐに返信があった。
「おめでとう! 今度の日曜、一緒にお祝いしよう!」
 土曜日には一緒に商品開発を手掛けた上司と同僚に、高級レストランで盛大に祝ってもらったが、シャンパンを飲みながら絵真の心に浮かぶのは、賢斗一人だった。
 日曜日。精一杯のおしゃれをして賢斗の家の玄関に立った。
 「おめでとう、絵真!」
 ハグとキスで迎えられて、部屋に入った。
 壁には「おめでとう」と、ゴールドのひらがなレターバルーンが五つ。風船もたくさん床を這っていた。
「座って座って」
 肩を押されて畳に腰をおろすと、賢斗が電子レンジで温めたハンバーグカレーと、ビールを持ってきてテーブルに置いた。
「おめでとう!本当に嬉しいよ。はい、これ、お祝いのプレゼント」
 渡された小さな箱はどう見てもアクセサリー用で、いきなり胸が高鳴った。
リボンがかけられた箱に入ったプレゼントをもらうのは初めてだった。今回の事が絵真にとってどんなに嬉しく、晴れがましく、特別な事かを分かってくれたのだろう。
そしてそれを祝う気持ちを形あるものに込めたかったに違いない。
 お金ないのに、賢斗ってば無理しちゃって……。一生大事にすると心に誓った。絵真は嬉しさのあまり胸がはちきれそうになりながら、リボンを解き包み紙を開いて、そっと蓋を開けた。
中に入っているものを見た瞬間、絵真は顔がこわばってしまい笑顔を作れなかった。その箱に入っていたのは、一目で手作りとわかるストラップだった。EMA、そしてLOVEのアルファベットビーズがテグスに通してあるストラップと、濃いピンクから白に近い薄いピンクの小さなビーズを並べたビーズストラップが結び付けられている可愛らしいもので、今までもらったバースデープレゼントやクリスマスプレゼントと同じように、心が込められているのがわかる。それなのに、気持ちが地の底まで沈んで行くのをどうしても止められなかった。
私は心より形ある物に価値を置くような人間に成り下がってしまったのだろうか。自分に問いかけてみた。しかしそんなはずはない。アクセサリーが欲しかったのかと訊かれたら答えは百パーセント「ノー」だ。ブランド物や高い物が欲しかったわけでもない。自分自身さえ分からぬ理由で、絵真はこの手作りストラップに失望したのだった。
「これ、俺とお揃いなんだよ」
 賢斗がパーカーのポケットから取り出したのは、色違いのストラップだった。
「ありがとう。嬉しい。すごく綺麗」
「色にはすごくこだわったんだ。絵真が好きなピンク系で統一した」
「二つも作ってくれたんだね……時間かかったでしょう?」
「少しだけね。絵真の喜ぶ顔が見たかったんだよ。絵真が頑張ったお祝いだからたくさん愛を込めた」
ハンバーグカレーを食べながら、賢斗はいつもの魅力的な微笑みを投げて寄こした。
「高級レストランでなくても、二人で食べるご飯って最高だよね」
 その言葉に少しも異論はなかった。しかし、高級レストランに行きたいわけじゃないのに、何とも言えぬモヤモヤしたものを感じていた。そしてそういう自分を恥じてもいた。
就職して毎日たくさんの男性をそばで見て、仕事や飲み会で話すようになったせいで、純粋さを失って、賢斗に対する気持ちが変わってしまったのだろうか。
確かに普通の大人は昼まで寝てはいないし、一日中ひっきりなしにLINEを送る暇もない。賢斗はもう二十九歳なのに、将来のことを全く考えていないのは、幼な子のように純粋で計算ができないからだ。
それがわかっているのに、心の中にモヤモヤとした思いが生まれたのはきっと自分が汚れてしまったからに違いない。打算的な人間になってしまった証拠なのだ。
賢斗は出逢った頃からずっと息を吐くように「愛してる」という言葉を降り注いでくれて、誕生日、クリスマスには必ず心を込めて手作りで部屋を飾り、心がこもった自作の歌をプレゼントしてくれる。それ以上何を望むというのだ。
しかし確かに何かが変わり始めていた。変化しているのは絵真だけで、賢斗は少しも変わらない。煌めいていたものが色褪せていくのを、止めることはできなかった。それでも、賢斗の「無邪気な優しさ」が何度も何度も絵真を引き戻した。
出逢った頃の憧れや恋心は消えつつあったが、埋(うず)み火(び)を探って火を起こすようにして、賢斗への情を絶やさぬ努力を続けていた。
半年前の二月、小雪が舞い散る日だった。新潟に住む祖母が脳梗塞で倒れ、危篤という連絡が昼頃入った。孫の中でも特別に可愛がられていた絵真の驚きと悲しみは深かった。すぐにもかけつけたかったが、どうしてもはずせない仕事があり、絵真が上野駅に着いた時には夕方六時を過ぎていた。すっかり陽が落ちて大粒の雪が音もなく降り落ち、寒さがコートを通して身にしみた。
絵真は賢斗を探した。彼はここにきているはずだった。祖母危篤の連絡を受けてすぐにLINEを送っていたし、新幹線の発車時刻も知らせてある。
会社から上野駅に着くまでの間、絵真の目の中にはずっと、自分を抱きしめてくれる賢斗の姿が映っていた。
早く生の声が聞きたかった。顔が見たかった。賢斗の胸で泣きたかった。だから会うまでは電話もLINEもしなかった。
発車時刻が迫っていた。あと五分。ホームを間違えたのだろうか。
不安になって電話をかけると、少し眠そうな声が返ってきた。
「賢斗……今、どこ?」
「家だけど。え? もう新潟に着いたの?」
「……まだ上野……」
「絵真、俺の心はお前と一緒に新潟に行くよ。俺がずっとそばにいることを忘れないで」
その優しい言葉に、目の淵まで上がってきていた涙が一瞬で引っ込んだ。もうどんなに埋み火を掻き立てても、どんなに必死で息を吹いても、小さな焔すら立たなかった。
祖母の葬儀が終わって東京に戻る新幹線の中で、絵真は短い別れの言葉をLINEで賢斗に送った。
理由も書いてない一方的な別れに、賢斗は晴天の霹靂だったに違いない。絵真自身、別れを切り出した理由も心情も明確に言語化することができなかったのだ。他者を納得させられるはずはなかった。ただ「終わった」という乾いた実感と「もう二度と元には戻れない」という確信があるだけだった。
しかし厄介なことに、彼との間には「小太郎」という鎹(かすがい)があった。賢斗が雨の日に拾ってきた猫だ。
小太郎は、絵真にとって特別な猫なのだ。茶色に黒い縞が入ったキジトラの小太郎は、初めて会った時から、まるで顔見知りであったかのように絵真に懐いた。
いつもそっと絵真の膝にのってきた小太郎。眠っていても、絵真がなでるとゴロゴロと喉を鳴らしてお腹を見せた小太郎。
仕事熱心なパン屋さんのように、しょっちゅう絵真の腕や太ももをこねた桃太郎。
大好きな「ホタテ味の干しカマ」を見せると飛んできてきちんと座り、舌なめずりしながら「お利口さんアピール」をした小太郎。絵真が帰る時には、必ず前を塞ぐように両手を広げて立ち上がり、抱っこをせがんだ小太郎。まるで「僕も一緒に連れて帰って」と言っているようだった。
「にゃあにゃあ」と、か細い声で鳴く小太郎の声を背中で聞きながら、絵真は何度足を止めて振り返ったことだろう。
絵真が別れを告げてもなお、賢斗との曖昧な関係がズルズルと続いているのは、この鎹のためと言っていい。
「小太郎はお前が来なくなったら寂しがるよ。恋人じゃなくなっても、友達でいようよ」
賢斗の言葉を跳ね除けることはできなかった。
だから「小太郎が吐いた」と連絡があれば飛んで行って動物病院に連れて行き、「小太郎が散歩に出たまま帰ってこない」とLINEが入れば、仕事が手につかなくなって、結局賢斗の家に駆けつけてしまう。
賢斗は毎日小太郎の写真LINEで送りつけてきた。どれもたまらなく愛らしく、ベロを仕舞い忘れて仰向けに寝ている小太郎に癒され、あくび途中の化け猫のような小太郎に笑わされてもいる。
 賢斗と別れても、どうしても小太郎とは別れられない。しかしどんなに懇願したところで賢斗が小太郎を譲ってくれないことはわかっている。それならば、盗むしかない。だから今、絵真は「家宅侵入罪」を犯しているのだ。

「小太郎、どこにいるの?」
 絵真が畳を蹴るように立ち上がったその時、
「にゃあ」
 どこからか聞こえた声に振り向くと、小太郎が裏口のドアの隙間から身を差し入れて飛び込んできた。
「小太郎!」
絵真は小太郎を抱き上げて、ぺたりと座り込んだ。
「ああ、良かった。もう会えないかと思った!」
喉から漏れるゴロゴロ音を聞きながら、絵真はハッと我に返った。
私はなんという非道なことをしようとしているのだろう。賢斗だって、もし小太郎に会えなくなったら、どんなに悲しいか……。
賢斗は言っていた。
「家賃がすごく安いし、ここなら夜中でもギターをかきならせるからこの家を借りたけど、もし小太郎がいなかったら寂し過ぎて引っ越したと思う」
小太郎は賢斗が仔猫の時から育ててきたたった一人の家族なのだ。私がどんなに小太郎を愛していても、奪う権利はない。
 涙が溢れ、指先が震えた。
「小太郎ちゃん……。一緒にいたいけど、それはいけないことなんだよ。ごめんね」
 そっと撫でた丸い背中を、大粒の涙が濡らした。
「そうだ、大好きなおやつあげようね。これが最後……」
 絵真はゆっくり立ち上がり、小太郎のカリカリとおやつが入れてある押し入れを開けた。
しかしそこに入っていたのはカリカリだけで、小太郎が大好きな「ホタテ味の干しカマ」が見当たらない。そのおやつを食べる時、尻尾をパンパンに膨らませるほど、小太郎が大好きなおやつなのだ。絵真は、小太郎がそれを食べている姿を思い出しては、喉に大きな塊がこみ上げて飲み下せなかった。
せめて他のおやつでもと思ったが、家中探しても、チュールもフリーズドライもなかった。小太郎の食べものは、ホームセンターに売っている安いカリカリの大袋が一つあるだけだった。
絵真はここにくるたびに小太郎のおやつを持ってきていた。別れてから半年、賢斗は自分で一度もおやつを買ってないというのか……。
「大好きなおやつ、もらってないの?」
 絵真はふと思い立って台所に行き、冷蔵庫を開けた。中には缶ビールがぎっしりと詰まっていた。ウイスキーを割るための炭酸飲料、コンビニの名前が書いてあるビールのアテも数種類、庫内の隙間を埋めている。冷凍庫を開けてみると、餃子やピザ、あんかけ焼きそばなど賢斗の大好物がきちきちに押し込められていた。
次の瞬間、腕の中にいる小太郎と、舞い落ちる雪の中、上野駅のホームで立ち尽くしていた自分の姿が重なった。
ああ、そうだったんだ。
まるで閉まっていた扉が次々に音を立てて開いていくかのようだった。言語化できなかった思いが、一瞬でストンと腑に落ちた。
あの人はいつも心がこもった言葉を降り注いでくれて、心がこもったプレゼントをくれた。でも、自分の心しかこめていなかったんだ。そこに、私や小太郎の心は存在しなかったんだ……。
絵真は小太郎を抱き抱えたまま、リュックをつかみ、一目散に車に向かった。助手席のケージに小太郎を入れてエンジンをかける。手は震え、心臓のバクバクが止まらない。
しばらく走って赤信号で止まった瞬間、それが合図であったかのように涙がほとばしり出た。
「小太郎、もうずっと一緒だよ」
まるで誰かに追われているように、絵真は街を走り抜けた。一刻も早くあの家から遠くへ逃げたかった。「ホタテ味の干しカマ」がないあの家から、誕生日にペーパーフラワーで飾り付けられたあの家から、賢斗の自作の歌から、遠くへ、遠くへ、遠くへ……。

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