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議論とか論破とかから目標とかまで

通常、人間は議論に負けても自分の所論や生き方は変えぬ生きものだし、まけたあと、持つのは、負けた恨みだけである。

司馬遼太郎(1998) 竜馬がゆく3 文藝春秋

意見を交換することやブレーンストーミングには意味があると思う。でも、ドイツ語学習の中で「こんなこと議論する意味があるのか」そう思うことが多いので私はスッと黙ることもある。意味なく立場を表明させられて、その中で、意味のわからない言い訳や質問もたくさん聴いてきた。

当意即妙という言葉は全く適当だとは思わないけど、議論を有利に進めるために早く答えるのが良い場合もあるそうだ。後から内容を吟味すると「即」であっても「妙」ではないことが多いけれど。

ヨーロッパの学校教育では議論をするような場面がたくさんあるそうだ。議論を練習して来なかったので日本人は割と苦手とされている。

批判される筋合いはないけど、なんとなくそれを馬鹿にされていると感じることもある。でも、果たしてドイツのやり方で論理的思考が養われているのか。

そんなヨーロッパは多くの人が常に良き選択をしてきているのか。

書籍の中で竜馬は更に言う。

「おれは奇策家ではない。おれは着実に物事を一つずつきずきあげてゆく。現実にあわぬことはやらぬ。」

今、久々に目標を立て直す時に来ている気がする。
30代前半で立てたドイツ語を仕事にする、と言う目標は達成している。

更にドイツ語を使って行く気持ちはあるけれど、他のこともしたい。しかし、今のままの学習スタイルや範囲ではあっという間に一生が終わってしまう気がする。ここで大枠考え直す岐路に来ている気がする。

自分が人に迷惑をかけずなるべく自由でいられる生き方、興味や楽しさ、そして、特化できる部分とが重なる部分を探っていこうと思う。

笑い要素0で文章書いてしまいました😆

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