清の皇帝の演習問題【大学受験】

次の文章を読んで、後に続く設問に答えなさい。

【皇帝】
 私は、8歳で皇帝に即位し、68歳まで皇帝でした。在位中、1673年に( ① )が起こりましたが、南懐仁に命じて大砲を作らせ、1681年に鎮圧しました。また、台湾を直轄領としました。浙江や福建といった沿岸部から台湾に移る人々がいたのですが、これを防ぐために、( ② )を発し、内陸に強制移住させました。
 朝も夜もとにかく働いたのですが、中でも書物の整備に注力しました。漢字辞書と、百科事典である『( ③ )』の編集を命じました。その過程で、清に対して不平不満を述べた書物をみつけ、厳罰を下すことができました。これを( ④ )といい、次の皇帝以降も行いました。
 税制改革にも着手し、丁税を土地税の中に繰り入れる地丁銀制を実施しました。これに先立ち、私の即位50年を記念し、( ⑤ )(←漢字6文字)を発表しました。元々不正がはびこっていた丁税・人頭税を1711年時点の人口で固定し、土地に対して税をかけることで、貧乏な人の税負担を軽くするようにしました。
 治世ではキリスト教の布教問題もありました。この問題を( ⑥ )といいますが、結局のところ私はイエズス会以外の布教を禁止しました。次の皇帝は布教を全面禁止しましたが、イエズス会に色々と世話になっていることもあって、そこまではしませんでした。
 在位中に行ったことが多く、また特に税制面で民から支持を受けたため、現在の中華人民共和国でも、善政を敷いた皇帝として、私は有名です。


【人物A】
 私は、清の隣の国の者です。我が国では、シベリア経営を目論んでおり、勢力を東に進めていました。そして、満州に攻めたところで、【皇帝】が大軍を送ってきたので、協議をしました。討論が(16)白(89)熱して、( ⑦ )条約を結ぶこととなりました・・・討論が白熱したのは嘘です。というのも、この時の流行りは先の戦争の結果できた主権国家体制で、清国はヨーロッパの考え方とはとうてい違ったものでした。しかし、どうやら清国の中で、【皇帝】に対して宣教師が色々と進言をしていたようで、無事に条約を結ぶことができました。


【人物B】
 私は、父と共に、オランダ東インド会社の勢力を台湾から追い出し、占領しました。オランダの拠点であった( ⑧ )城には、現在私の像があります。ぜひ見てみてください。また、明滅亡後、明王朝の姓である「朱」姓を名乗ることを許され、国姓爺と呼ばれました。


白進
私は国王の命令で、清に送られました。中国最初の実測地図である『( ⑨ )』の作成に、同じく宣教師だったレジスと共に携わりました。【皇帝】についての報告書をヨーロッパに向けて送ったところ、【人物A】や我が国の国王もファンになったようでした。

[設問]
(1)空欄①~⑨にあてはまる適切な語句を答えよ。
(2)【人物A】の文中の「先の戦争」とは何か、答えよ。
(3)南懐仁とは誰のことか、カタカナで答えよ。
(4)浄瑠璃『国姓爺合戦』の作者を答えよ。
(5)白進とは誰のことか、カタカナで答えよ。
(6)白進を清に派遣した国王は誰か、答えよ。
(7)【皇帝】の在任中の江戸幕府の動向について、あてはまるものを2つ選びなさい。
ア:新井白石が海泊互市新例を定め、清との貿易を制限した。
イ:由井小雪の乱が起きたが、鎮圧した。
ウ:松平定信が、寛政の改革を行った。
エ:徳川吉宗が征夷大将軍に就任した。
オ:【人物B】の援軍要請に対して、断った。

【答え】
(1)①三藩の乱 ②遷界令 ③古今図書集成 ④文字の獄 ⑤盛世慈生人丁 ⑥典礼問題 ⑦ネルチンスク ⑧ゼーランディア ⑨皇輿全覧図
(2)三十年戦争
(3)フェルビースト
(4)近松門左衛門
(5)ブーヴェ
(6)ルイ14世
(7)ア・エ

皇帝は康熙帝。人物Aはピョートル1世。人物Bは鄭成功。

【ワンポイント】
(2)17世紀の出来事として、真っ先に出てきてほしいのが三十年戦争とウェストファリア体制。
(4)近松門左衛門―17世紀半ば―元禄文化。
(6)康熙帝・ピョートル1世・ルイ14世は同じ頃の人物。いずれも世界史上の大物。
(7)
イ:由井小雪は鎖国の影響を受けて乱を起こした。鎖国で山田長政のように、海外へ出ることができず。
ウ:100年ぐらい違う。
オ:人物B=鄭成功は、康熙帝即位の年に亡くなっている。鄭成功の援軍要請は、鎖国から数年後。

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