社会人の歩み

 社会人一年目。フレッシュさと、どこか緊張を兼ね備えた、どうにもむず痒い言葉だ。そこには新一年生とか、新部員とか、何かしら新しい風を期待するとともに「よしいっちょ打っておくか」という、出る杭を見咎めるような牽制心すらも感じさせる。その度に私はいつもやるせない気持ちになる。何だこれは。新手のいたぶり方なのか?

 とはいえ、別に社会人を否定するつもりも肯定するつもりもない。そんなものはただの言葉に過ぎない。要するに定義付けはそれぞれがすればよろしい。ただ、私は私らしく、私自身の考える社会人を模索するまでだ。それ以上のことも、それ以下のことも、私には到底及ばない。

 私はこれまでとんと「社会」なるものを経験したことがない。別段、経験したくなくてしなかったわけではないが、生きているうち、自然と経験せずに過ごしてきてしまったのである。

 もちろん、これは一般論的「社会人」についてだ。私なりに社会人として生きてきたつもりであるし、もしも、学生という身分を捨て、いち納税者として生きることが仮に「社会人」であるならば、私はやはり皆と同じ社会人であるのだろう。

 私が社会に出たのは大学を卒業後である。それまでまともな生き方をしてきていなかったが、ここに来てもやはりマトモではなく「俺は小説家になるんだ」と周りから見ればアホ丸出しのことを語りまくって、ついには就職戦線から逃げ出してしまった。ちなみに就職活動をしなかったわけではない。教員免許は持っているし、一応、採用試験など受けてみるだけは受けてみた。地元企業への面接も受けてみた。でも、どうにもしっくり来ない。どうやら普通に働くということが出来ない体質らしい。就職から逃げ出し、実家に帰ってアルバイトをしてみたものの、やはりそこでも私はあまり価値あるものを見出せなかった。アルバイト先でお客と接している間も、ずっと頭の中にあるのは「俺は何をしているんだろう」というひとつの疑問である。

 傍から見ればおかしな奴だろう。接客中、ぼーっとしたり、メモ帳を片手に宙を見つめたり、何やら新作のマンガが雑誌に掲載されると、それのどこが面白いのかをひたすら考えている。我ながらアホだと思う。でも、そういうものは制御の仕様がないと分かっていたし、私は昔からこういう私だと知っていたので、今さら変えようもないな、と諦めの境地に達していた。

 そんなわけでアルバイトを辞め、長い間したかった文章で生計を立てる方法を模索し始めたのである。正直言って、甘すぎる。私は親戚一同から非難と罵声を浴びせられてもおかしくないと思っていた。しかし、家族の理解はあった。それだけは私にとって救いであり、恵まれた環境であったことに感謝している。こんな息子、勘当されても仕方ないだろう。だが、どうせ高校も行かずに「俺、小説家になるから」と大言壮語を口にしていた私だ。家族もまた諦めを覚えていたに違いないと今なら推察できる。

 さて、晴れて社会人なのか逃避民なのか分からないが、少なくとも仕事をしてお金を得ることに成功してきた私だけれど、相変わらず大した金額にはならないし、独り立ちという世間的意味合いからは到底かけ離れている。

 でも、もしこれを社会人と呼ぶならば、私の社会人一年目はずるずると自分の気性に引っ張られるまま「もうこれしか道はない」という道を歩んできたに過ぎない。

 社会とはかくも恐ろしいものかなんて考えたこともないし、社会人だからこうしなければならないなんて考えたこともない。ただ、私は私らしく生きるしか方法が無かっただけである。

 だから、もし社会人というものを私なりに考えるとするなら、それは自分の道を、少なくとも自分自身で見つけ、歩み出した瞬間から始まる。

 私はまだこの道の先へたどり着けるかどうか分からない。そもそもこの道がどこに続いているかも分からない。ただ、自分の望みは分かっている。私は私を知っている。それだけが強固な拠り所だ。

 社会人という名前に騙されてはならない。社会を拠り所にするのでは、それはもう学生と何も変わらない。学生は教育機関を拠り所にするし、子供は親を拠り所にする。私はまだ中途半端で、子供と社会人の狭間を揺れ動いているが、いつしか自分自身のみを拠り所に出来た時、本当の社会人と呼べるのではないかと期待している。

 歩むといい、社会人。私もまた、今は歩んでいる。

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