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支援級を選択するということ。選択させるということ。

美沙は小2の頃に、これは普通の子たちとは違うという違和感から、
先生方と連携して、小2の頃に取りだし(別の部屋で個別に勉強を教えてもらう・・・今にして思えば本当に贅沢な時間)を経験。

小3ではその担当の先生が派遣されなくなったということで、個別に支援級で勉強を教えてもらう(今にして思えばそれが通級だったのかな・・・にしてもやっぱり贅沢)。

小4でそれがなくなるタイミングで、これまたタイミングよくうちから車で30分で行ける場所に療育先が見つかり、そこで18歳(高3終了)まで療育を受けていた。

5,6年生で学校からの支援は全くなくなってしまったものの、療育先があったおかげで普通級の授業のみ受けていた。

どうやらその途中に支援級への入級を進められていたらしいけれど、私には記憶がない・・・以前におそらく私自身がそれを拒否していたと思われる。

これだけの条件がそろっていてもかたくなに拒んでいたんだわね。

バリバリWISCⅢのテストの結果はワーキングメモリーが低く、美沙にとっての普通級で過ごす日常生活の困難さはまわりの子に比べても大変さがあるよと言われていたにもかかわらず。

・・・私自身の支援級のイメージは「自立できないからこそ人の手を借りて過ごせる場所」だったから。

あの昭和の支援級。
私の出身校には当時きちんとした支援級があったし、そこで触れ合う子たちはみんな優しいけれど意思の疎通の難しい子ばかりだった。

美沙にはそれが全く当てはまらない、そう思っていた。

日常生活においてはそういう不自由さは全くなかったから。

コミュニケーションも取れるし、下手すれば大人顔負けなこともさらっと言っちゃう子どもだったし。

自分が教室に置かれている立場も分かっているし、なんなら先生のご機嫌やら、表に出ない大人の事情をくみ取ってそれをきっちり私に報告できる子どもだったから。

だから、いざ中学からの進路はどうするんだと思っていたけど。

美沙自身が「もうわからない勉強はしたくない」と自ら支援級を選択した。

その選択に一瞬迷ったのは

え?ほんとにそれでいいの?と美沙に聞いているようで、自分に一生懸命聞いていたんだけどね。

でも、いざ支援級に入級してみると、これが大正解だった。

そもそも、支援級在籍だと成績はつかない。

それが本当によかったのだ。・・・私がね。

支援級入級を拒んで普通級でみんなと同じようにがんばらせてみたところで、どんなにがんばって勉強をしたところで、その頑張りに反した結果で評価されてしまうことであり、それは本当に本人にとってはしんどいものになっていただろうなぁ。

そして私自身が学習面の評価というものを手放せたことが本当に楽になったのよね。

もうできないことを何とかやらせなきゃ・・・

というある意味親としての呪縛から解放されたってことを意味したわけで。

だから、みんなと一緒にやるには厳しい 国語 数学 理科 社会 英語
は支援級でやって、みんなと一緒にできる専科科目は交流級という形で中学校生活をスタートさせた。

そして美沙の学校は支援級でも場合によっては部活に普通に参加できる、という条件もあって、小4から始めた剣道をそのまま続けられたのだ。

でも、2年生の途中で「みんなと同じ普通の高校に行きたい」と、お試しでフルに交流級で授業を受けてみたけれど・・・

ほんとそこは苦しそうだった。部活もバリバリに体育会系でこなしていた。

そして何より、支援級と療育で学習面をカバーしていたので、帰ってきたら自分のやりたい、絵を描いたり、紙で工作したり、布で小物をつくったり、いろんな創作活動に充てていたものが、帰ってくるとぐったりして何も手につかない状況。

・・・今度は私がその状況に心の中でストップをかけたわよ。

ぐったりしてやりたいこともできなくて、きっと普通の高校生活を
送ることになったら、ここに間違いなく補習や補講が入ってくるだろうなと。

・・・それは今のいろんなことをがんばっている美沙じゃなくなることを意味するくらいに、私には想像できなかった。

と同時に、「ねぇ、支援級も、療育もやめなきゃいけなくなるんだよね?」ととても不安そうに言う美沙。

そんな不安そうな顔がおかしくて笑いながら「いやいや、そんな無理してやることないよ」と伝える私。

それまで、行けないとわかっていながら同級生たちは・・・という
思いがあって「支援級だから行けない進路」ばかり見ていた私だけど、「支援級だからこそ行ける進路」へすぱっと切り替えられた、そんな出来事でした。

おかげさまで高校はそんな支援級から行ける通信制の登校型の学校
見つかってそちらでお世話になることになった。

それが後に絵本につながるなんて思いもしなかった、そんな学校へ。


私にとってわが子のためにと支援級を選択するということ。

ほんとにこれでいいのか、以前に、この子は「障害がある」とはっきりと受容しなきゃいけないことであり、それって並大抵の覚悟ではなかった。

でも、私にとってのその受容は結局わが子を見ず私自身の「障害観」を突きつけて見させられたということなのかもしれないなと今は思うの。

自分がそれまでに見てきたもの・常識が本当にそうだったのか、それをたくさん日々の子どもによって見せられ、確認させられることだった。

そして、それは決して自分が見てきたものだけでなく、いろんなものの影響や、自分の中の見たくなかったものだったり、聞きたくない声だったり、決して目の前のわが子がそれを見せてくれているのではなく、結局自分が見ているものだったんだよねぇ・・・。

ほんと、人間力を鍛えられたよねぇ。なんて今思うわけです。

だから、どうか支援級を選択することでその子の可能性を狭めることはないってことはお伝えしたいし、そこで立ち止まってしまう親御さんがいたらお話をお聞きしたいなぁなんて思ったりもする。

支援級の先生を決める立場の方がいらっしゃったら、支援級の先生だからこそ、きちんと選任してほしいなと思うのです。

そして、支援級を担当する先生には、どうかご自分がこれまで見てきた
学校で見ている、普通にある常識ってほんとにそうなんだろうか・・・
それを存分に感じてもらいたいなぁなんて思ったりするのです。

もし可能なら、その子の特性を確認する前に、その子の保護者に、
日頃どんな思いをしてその子を育てているのか
、そこにぜひじっくり
耳を傾けてほしいのです。

それを聞いたら決して目の前の子供を支援級だからという理由で蔑ろに対応するなんてことできなくなると思っている。

また、ぜひ、先生方も支援級という場所をどう捉えてどんな思いで子どもたちと向き合っているのか、それを保護者にきちんと伝えてあげてほしいのです。

その子がどんな思いでそこを生活する場に選んでいるのか。

その親御さんがどんな思いでその場所を選択するのか。

その先生がどんな思いでその場所に立つのか。

そこにこそ、目の前の子が人としてどう成長しながら生きていくのか、
子どもを育てていく保護者と、子どもを育んでいく先生、それぞれの思いがあって、私はそこにはこの世の中どこを探しても見当たらない、教科書なんかでは書けない、教えられない、支援級にしかない、いや、支援級だからこそのとても尊いものがある気がしてるのです。

だからこそ、すべての先生に、支援級を経験してもらいたいなぁと思ったりもするんだけどね。

そして支援級は決して排除される場所でもないよ。可能性を十分に切り開ける場所だよ。

そしてこれは、我が家の物語です。

目の前に10人の支援級在籍の子がいたとしたら、10通りの支援級への思いがある、と言うことを決して忘れないでくださいね。

この後に書いたnote
良かったら引き続きお読みくださいませ。

今日もここまでお付き合いくださり本当にありがとうございました。


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