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自分の答えは毎日ちゃんと出てるのさ。

算数って本当にわからなかった。

テストとなった時。

左欄の計算は完璧。

問題は右欄のズラーっと並んだ文章題。

これはたすのか引くのかかけるのか割るのか。

何を聞かれてるのかがわからない。

だから、小学校の算数は常に壊滅的。

ABCの評価は常にC。

だから算数は苦手なものだとずーっと思っていた。

中学に入って数学になってもそれは変わらずで、5段階評価なら2。

ところが、中2になった時、先生が2人になった。そのうちの1人の先生がめちゃくちゃ雑談の面白い先生で。

なんなら授業よりその雑談を聞くのが本当に楽しみだった。
もう1人のおじちゃん先生は、本当につまらない授業で、まぁ苦痛。

と、同時に。
面白い先生の授業は内容もすごくわかりやすくて、面白いくらいに問題が解ける。
文章題も面白いくらいに解けた。

初めて成績をもらった時、4という数字にめちゃくちゃ戸惑った記憶。

え?私、数学って苦手だったのにって。

おもしろ先生のテスト、50点満点で45点だった時、心底驚いたの。

え?私、数学でこんな点数取れちゃうのかって。

ええ。
大人になって気づいたのは、私本当文章の読解力がなかったんだなぁ。
わからないが前提だから、読んだ瞬間、これ、何言ってるのかわからない。

そう勝手に思ってパタンと閉じていたのかも。

そこには子どもの頃気づかなかったけど、関数とか計算が複雑になればなるほどおもしろさをそこに感じていた。

だから、本当は理数系で進むのが正解だったのに、国語が好きだと思い込んでいたから、国語国文科専攻なんて行って、入って3日でしんどさ思い出す笑


実家にある小学校の成績を何の気なしに見ていたら、6年生の二学期、国語もCだったのを見て、え?どういうこと?と思ったのは、夏休みに読書感想文で校内放送で選ばれたのにも関わらず、だったから。

あれ。
私、国語得意だと思っていたけど、えー?

ほら、こんな文章書くのは好きだったから。

ってことを手繰り寄せていくとね。

ああ、私、あらすじ書けないけど、感想文だったら、これって一文があったらそこから膨らませて書けるタイプなんだってことに大人になって気づいたの。

まどろっこしい説明文はいらない。

とりあえず要点出してください、なのよね。

こんなまどろっこしい文書いてるのにね笑

そして、不意に何かあった時、その状況を追って口で説明するのが本当に苦手。

要領を得ない。

え?だって見えてること全て大事だと思っちゃうから、その大事さに優先順位なんてつけられないんだわ。

だから、仕事でミスった時に、その状況を1から説明するのが本当に困る。
それ以上にチーフが困っているのがさらに困るわけ。

私の中では全てわかってるのに、なんで伝わらないんだ?!ってさ。

そんなわけで、私の頭の中の常識は、国語は好き。算数嫌い。だったけど、そうじゃなくて感想文は好き。計算問題も好き。

だから。
何が言いたいって、国語の中にも算数、数学的な要素はあるし、算数、数学の中にも国語的な要素はある。

これが苦手だから全てができないってこともなく、本当に得意なものを伸ばせるのなら、なんでも、どういうやり方でもそこはいい。

自分の得意不得意、自分の感覚はちゃんと毎日のルーティーンの中に現れてる気がする。

こんな状況のとき、なんでこうできないんだろうは、決してできない自分が悪いわけでも、だめなわけでもなく、ただ自分ができると思ってるやり方と、実際に出す答えの乖離があるというだけの話、もあれこれあったりするよね。

だからほんと、目の前の子どもの可能性なんて、ほんの一旦見ただけでは簡単にこれってすぐすぐ答えは出てこないってこと、だよねえ。

自分の可能性、できるできないそんなことすら、50年生きてきてようやくそうかと合点が行った、そんな話だし。

自分のことなんてわからないのに、わが子のことがわかりますなんて、ほんとはやっぱりすぐすぐ言えないこと、じゃない?

そんな美沙は最近、細かく書いてある文面の、必要な部分をチョイスできるようになったと、まるで新しいものを発見したかのように喜んでます。

うん。
人間って新しいものを発見できる生き物で、そこから自分のこうだと思っていた価値観を書き換えることもできたりするんだね。

なんてこと、見てる楽しみもあり。

だから、ほんと、人が見てる世界って本当にごく一端の部分であって、そこが全てかって言ったらそんなことはないわけで。

頭ではわかっているけどって、いやそうじゃなく、心はちゃんと知ってるけど頭がわかってないから何度も同じことをするんだなぁと思ったりする。

だからどうか目の前の出来事に、自分が引き起こす出来事にがっかりしなくてよくてね。

本当は自分が一番可能性に溢れてるって話なんだよ。

単純にそれができることが当たり前だと思ってるから。ほんとは当たり前じゃないし、自分じゃ気付いていないこともたくさんあるわけで。

だから、ちゃんと自分を見なさいよって私は美沙の発達障害という視点から教えられたって話でした。

自分、ちゃんと見てる?
子どもがそれ、教えてくれてるんだよ。

ってな話も、よかったら聞きにきてね。

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ついつい情報ってSNSで集めちゃうけど、ちゃんとそこに人としての温かみ、あるかな?
声聞くことで見えるものが変わることもあるからね。

今日もここまでお付き合いくださり本当にありがとうございます。

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