宝物と依存
大好きな本屋さんがあった。
そこでは時々ワークショップが開かれていた。マンションの同級生の誘いで小学校の頃何度か参加したことがある。
そのワークショップは、今思えば僕の原点なのかもしれない。
水族館の大水槽の前で寝袋を引いて寝たり、本屋の床で夜通し本を読んだり、著名な絵本作家のワークショップに参加したり、モノづくりをしたり。
大人になったであろう今でもワクワクするようなことを幼少期に沢山体験させてくれた両親には感謝している。
表現したい、創作したいという気持ちが強く育ったのはこれらの経験等を通して培った部分もあり、原点……ではあるが、別にその話がしたいわけではない。
とあるワークショップで"自分の宝物を展示して紹介する"という企画があった。10歳になるかならないかって頃だ。
各々が一番大事にしているもの、宝物を持って、それを10センチほどの透明な立方体のケースに飾りを施し、展示をするのだ。そのケースの隣には、それが何であり、どんなものなのか、そして自分にとってなぜそれが宝物なのかを記載し展示する。そんな内容だった。
自分にとっての宝物。正直悩んだ。きっとモノの優劣なんてあまり考えたことがなかったから。
そんな中ふと思い浮かんだのは、幼なじみから旅行のお土産でもらった小瓶だった。
きっと沖縄かどこかだ。さらりとした青色をした砂や小さな貝殻とともに、星型の砂が無数に混ざる。言ってしまえばありきたりでベタな土産だ。
その幼馴染はいつだったか、下校前に「私、引っ越すんだ」と唐突に告げた。家族ぐるみの仲だったが、引っ越しの事実は誰も知らなかった。当然唖然とした。うまく処理できず、何も手がつかず上の空。幼稚園からずっと共にしてきた。
トワイライトスクールで進めるべき宿題は少しも手につかなかった。
そして、少ししたら幼馴染はいなくなった。
だからだろうか。
その子からもらった小瓶はどこか大切に思えた。思おうと思ったのかもしれない。他のモノたちと比べて何が秀でていたか、そんな理由はわからず、ただ漠然とこれを持っていこうと思った。小瓶が大事だったのか、幼馴染が大事だったのか。
どちらにしろその小瓶に理由は詰まってる、それで十分だった。
青色のビー玉や貝殻とともにこの瓶を飾ろう。
思いついた材料をいくつか買い集め、ワークショップに持っていき、イメージ図を描く。冒頭に述べたようなイベントよりも少し地味とも言えるこの企画も、頭の中に理想像が浮かべば気持ちも乗るものだ。思いのほか楽しんでる自分がいた。
そんななか、ガラス瓶は割れた。
いともあっけなく割れた。
何かの拍子で机から落ちた。欠片が散らばる床を見て何が起こったのか頭がうまく動かない。ただ込み上げる何かと、胸にかかる重さと、立ち尽くす自分がそこにいた。
大人は慰めてくれた。
「形が変わっただけだから大丈夫」
そんなことを言われた気もする。
「ガラスは危ないから触らないでね」
そういいながら、散らばってしまった欠片を無造作に掃除機で吸い上げる。あっという間だった。どこか無機質に見えたその行為に嫌悪感を覚えた。
悲しさか、怒りか、不安か、虚無感か。
理由なんて覚えていないが、ただ泣いた。
結局、壊れた破片と吸い上げた砂を使い、それらをショーケースに詰めて、カタチとしては最後まで仕上げることとなった。
大切だったから宝物だと思ったのか、壊れてしまったから宝物だとあとから思えたのか。ただただ心ここに在らずの状態で、トントンとワークショップは進んでいった。その先はあまり覚えていないが、ワークショップを終えて時間通りに迎えにきた両親に、ことの経緯を説明するのがただ苦しかったのだけは覚えている。
形あるものはいつか必ず壊れる。
「形が変わっただけだから大丈夫」
何も大丈夫ではない。
もう"それ"はないのだから。
元には戻らないのだから。そう、形が変わった、ゴミに。だって、宝物だったものはいとも容易く、ゴミ同様に吸い込まれていった。ほんとうは展示なんてしたくなかった。
家に帰ったら、それを残して飾る気にもなれず、少しの罪悪感を抱えながら処分した。
それからだろうか。
形あるものはいつか壊れる。
だからこそ大事なものは極力作りたくない。
得る幸せよりも、失うことの方が辛い。
計り知れない恐怖。
同じ理由でペットも飼えない。いつか失うことを想像すれば耐えきれず、望むも望まない。人間関係だってそうだ。できるだけ大切なんて作りたくない。
誰かにとって自分が大切な存在でありたいとは思う。一番でありたいとも思う。むしろその気持ちは人一倍強い。
でも、自分側からというのには億劫だ。億劫どころか拒絶に近い。失う怖さを考え、ある一定のラインにきたところでふと「ここまでだな」と拒む。
お土産売り場で砂の瓶を見るたびに思い出す。割れて散らばって掃除機で吸って飾って、はいカタチを変えど元通り。
そんなわけない。
大切なものが増えることは怖い。極力そんなものを持たない方が苦しくない。たとえどれだけ楽しく幸せな時間があろうと、失えば元には戻らない。そんな可能性が孕んでいるものに自ら触れたくない。
勇気がないと言えば簡単だ。実際、家庭を持ったりパートナーのいる周りの友人をすごいなと思う。でも、「勇気がない」なんてそんな言葉で片付けられてたまるか、というどこか反発する自分もいる。
儚いから美しい、果たしてそうなのかな。
代表格とも言えるであろう桜は、また来年咲くとわかっているからそう言えるんだ。二度と元に戻らない"儚さ"は悲しみしかもたらさない。思い出なんて過去は塗り潰される。今にだって、これからにだって必要なのに、勝手に過去になんてなるな。
幼少期のトラウマは人生観を大きく変えた。
大切は増やさない。
増やしたくない。
その反面、物欲はすごい。
好きな作品になると販売商品はもちろん、非売品だったり本の帯も丁寧にラベリングしてとっておいたり、物への依存はすごい。開けもしない、使いもしない未開封のグッズが隙間なくカラーボックスサイズの箱10箱以上に詰まっている。
箱買いなんてよくある話だ。
なんでだろうな、ものは壊れるとわかっているのに代替品があるから、大切なものを作れない分依存しているのか。
ふと全部手放してしまおうか、そう思う時もある。
きっと依存に過ぎないからなのだろう。
全部手放した時、自分は何者になるのか。
大切なものは作りたくないけど、モノへの依存は激しい人間のお話。
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