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他人あってこその自分と、わたし的書く愉しみ

庭が荒れていると、家の中も荒れている。


どこかでそんなことを聞いた。

そうかそうか、確かに。
なんて思っていたけれど、庭をきれいに保つには相当のエネルギーが必要ということを、庭を持つようになってはじめて知った。


だからこそ、病院や学校、公共機関にショッピングモール、花壇がきれいな場所を見つけると、心が安らぐ。


そこには必ず人の手が入っていて、細やかに心を配り、お花をしつらえてくれている人がいるんだと手に取るようにわかるようになったから。


ありがたいな、と思う。

街の風景が乱れると、その街に住む人の心も少なからず乱れていくし、治安のようなものも悪くなってしまう。それを、食い止めているのが名前も顔も知らない、花を愛する人なんじゃないかと思うから。


それに加えて

悲しくて切ないニュースが流れてくると、’自分にできることはなにもない’ そんな風に自分の無力さを感じてしまうことがあるけれど、



庭をきれいにする。花を植える。
そんな小さな小さなことを地道にやることでいいんだ。と思えること。


それが、とてもありがたい。


このnoteを書くことだって、大きな視点で見ると「無意味」と切り捨てられてもおかしくない。

何かすごいことを成し遂げた人間でもなければ、芸能人でもない、一般人中の一般人であるわたしが文字を綴っているわけだから。



でも、だからなんなんだろう?


無意味なことをしちゃいけない、という決まりなんてない。


わたしの中に眠る、わたしだけが感じられる、わたしの想い、感情。
言葉にしないと手の平からするするとこぼれ落ちてしまうそれらをわたしが拾い上げないでだれが拾い上げてくれるのか。



自分とつながりながら、心の奥底から言葉を絞り出すたびに、こんなにも自分のことをわかっていなかったんだと毎度毎度飽きもせずに驚いている。



これから先、何歳になっても自分に何度も驚いて楽しむことができるなんて、最高だなと思う。


家の庭をいつもいつもきれいに保つことは難しいけれど、花を植えることを楽しんでいる人のように、わたしは「書く」ことを楽しんでいるんだ。と、改めて思う。


_花壇に花を植えるように、言葉を植える。


お花は自分がうれしくて、好きだからやっている、という方が多いと思う。

でも、「自分のためだけ」だったらこんなにも街中の花をきれいにしようという人は現れない。と、考えている。



お花がだいすきだから、それをお裾分けするような気持ちで花を植えている。つまり「他者のため」という気持ちがある。


少なくともわたしはそう解釈していて、街中の花壇も、すてきなお家のお花も「お裾分けいただいちゃったなぁ」という気持ちでニンマリ見つめさせてもらっている。

娘とデートで植物園。ネモフィラ。



わたしにとっての、「書く」も似ている。


あの時感じた気持ちを真空パックに入れて閉じ込めておきたい、書くことで自分とつながることを楽しみたい。そんな、自分だけの気持ちがまず一番にあって、


でもその次に外に向けて書くことで


「自分の表現を楽しむ」
「だれかのなにかをちょっとほぐしたい」


という’他者’に向けての気持ちがある。


他人という視点が入るからこそ


磨く。より、良くする。
という気持ちが生まれる。

気にしすぎて、疲れてしまうのは本末転倒だけれど、程よく「他人」を意識するのは自分のためにもいいことだと思う。





花を植えるように、言葉を植えて、通りすがりの誰かが立ち止まってくれたらうれしい。

立ち止まらなくてもうれしい。

そんな気持ちで
愉しく、書いていきたい。

今朝の純喫茶モーニング。 
こだわりと、温かみと、良い距離感。
コーヒー&ゆで卵。
こだわり全開って気持ちいい!



ちなみに

楽しむ・・・与えられたこと(物理的に)に対して楽しく過ごすこと。
愉しむ・・・自分自身の気持ち、思いから感じ生まれるたのしい状態。

だそうです。
「愉しむ」を大事にしていきたいですね。

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