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大きな主語に気をつける

こんにちは。野本です。
私は「みんながグローバルにならなくて良いのでは?」とよく書いています。

そしたら、こんなメッセージをいただきました。

この言葉にドキっとしました。そういえば、私には田舎出身の友達が少ないです。調子に乗って「田舎の人はみんなダメ」とか言ってなかったかしら、と。

以前、日本人の友人が「マレーシア人ってホント全員ダメだ」とかいうのを聞いて、すごーく嫌な気持ちになったことがあります。まるで、自分のマレーシア人の友達をディスられてるみたいでした。生身の友達が一人でもいると、こういう発言はできなくなる。


なぜ人は主語を大きくするのか

主語を大きくするのは、2つの理由があります。

一つは「強い言葉は届きやすく面白い」ってこと。
もう一つは「人は何かをカテゴライズしたがる」ってことなんじゃないかな。

一つめ。
人々は、単純明快で強い主張に惹かれます。
だから、書籍や雑誌、テレビのタイトルや見出しは、強めにするのがセオリー。日本では「負け組」とか「底辺」とか、強い言葉が溢れてる。

もう一つ。人間って、訳のわからないものは、カテゴライズしないと不安になるらしい。フレディ・マーキュリーが「評論家はいつもクイーンの音楽をカテゴライズしたがるのにうんざりした」と言ってました。なるほどなぁ、と。

みんなクイーンみたいにワケがわからないものが嫌なんです。「クイーンはハードロックだ」「クイーンはプログレだ」だと安心するのです。なんだかわけのわからない物は気持ち悪い。

多分ですが、「アメリカ人は全員大雑把」「日本人は全員真面目」みたいにまとめておくとホッとする。マレーシアでも「マレー人は怠惰、インド系は喧嘩っ早い、華人はお金にうるさい」というステレオタイプがあるのですが、何だかすっきりするんですね。

しかしここに落とし穴があります。
冗談で言ってる分にはともかく、強い言葉を使ったディスりは、誰かの心をえぐります。

私は「田舎を悪く言われるのが悲しい」というこのかたのツイートを読んで、「そういえば、自分も無意識に言ってるかもな」って反省しました。

頭で形成されるステレオタイプな悪者

相手の顔が見えなくなると、いよいよその傾向が大きくなる。今、日本で「子連れはみんな嫌い」「女性は全員嫌い」って人がいるそうですが、周囲に仲良しの子供や女性がいたら、こうはならないのではないだろうか。

マレーシア人をみていて思うのは、個人が組織に飲み込まれてないことです。
良くも悪くも、個人個人の顔が見える。だからあんまりヘイトが起きないんじゃないでしょうか。

逆に私は、日本の現状をあまり見てないので、だんだん、日本人の個人の顔が想像しにくくなるんです。

サラリーマンは、
駐在の人は、
母子家庭は、
高層マンションは、

など、一括りで話してしまう。しかし、実際に付き合ってみたら、サラリーマンにもフリーランスにも、駐在妻にも母子移住の人にもいろんなタイプがいます。

特定の国の外国人を悪くいうのも同じかな。

いちいち何かを傷つける先にあるもの

主語を大きくして語るのは、面白いしわかりやすいんですよね。
だから、この手法が好きだ、というのはとてもよくわかるし、私もたまにやってます。

しかし一方で、その主語に悪口をくっつけるのは危険でもあります。

無職はいらないとか、サラリーマンは馬鹿だとか、障害者はみんな死んでいいとか、極端な主張になる。

いちいち、何かをディスっていると、その先に待っているものは、選択肢の死ですよね
要するに、自分の人生が狭まってしまう。
将来、無職にもサラリーマンにも障害者にもなれなくなる。

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