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日本の教育でもAI時代を生き残れるか

こんにちは。野本です。
教育改革にあちこちから不安の声が上がっています。

今の日本の教育が変わらなかった場合、AIの時代に対応できるのか。
今日は仮説をご紹介します。

現状はどうなっているのか

塾を経営されている赤池さんが、興味深い記事のシェアをされてました。とてもよくまとまっています。

1984年、当時の中曽根康弘首相が主導して設置された臨時教育審議会では、「記憶に偏った詰め込み型、知識集約型の教育ではダメだ」という主旨の議論がすでに行われていた。その答申には3つの点が記されている。その第1点目には、「画一性、硬直性、閉鎖性を打破して、個人の尊厳、自由・規律、自己責任の原則、すなわち『個性重視の原則』を確立する」と明示されており、その後、「個性を大切にしよう」という空気が日本の教育界にじわじわと広がっていった。それがうわべだけのものであったか、本質的なものであったかは今はあえて触れない。

1984年と言えば、バブルの直前。
当時から「日本の教育は変えるべき」と言われていた。
その後35年、先に進んでない。2020年の教育改革も前途多難です。

35年もダメなら、何か決めることはもう無理なのかも、と思います。

Twitterの議論を見ていても、枝葉末節にこだわり、ほとんどが泥沼化。
他国でも議論は起きるのですが、ここまで泥沼化しないかな。

日本もマレーシアのように規制をゆるくして、またはオランダのように校長の権限を強くして、バラバラな中から選べるようにした方がいいのかもしれません。

画一的な教育で育つと何が問題なのか

日本の教育がこのままだった場合、何が問題か。

記事はこう書いています。

学力によって切り分けられ、均一化した集団の中で枠から飛び出ることは許されない。空気を読みながら枠から出ないよう息を殺すことを覚える。時間を厳守し、指示通りに、文句を言わず、我慢して、ひたすら効率よく仕上げる人間を量産する。何かイレギュラーな場面に立たされると必ず大人に確認をとる。そんな「大人にとって都合のいい子」はつまり、「古い企業社会に都合よくプログラミングされた人間」ではないか。そのように育ってしまった人間ができる仕事は、遅かれ早かれ、すべてAIに取って代わられるだろう。

そしてこう結びます。

今、日本に突きつけられている「リスク」とは、まさにそういうことなのである。

まさに私が小学校で最初に感じていた危機感です。確かに、日本から来る学生さんを見て、そう感じることがあるのは事実です。

ただ、私はもう少し楽観的で、

1 古い企業社会に適合する人間の居場所は、まだしばらくはある
2 画一的な教育からも、個性のある人間は生まれる

って思ってます。
なぜか。順に説明します。

仕事がAIに置き換わる時代は来るのか?

マレーシアではスーパーで無人レジが増え、マクドナルドや寿司チェーン店での注文が自動化しました。エアアジアのチェックインも荷物預けも無人です。サポートもチャットボットで、人間は途中から出てくる。この流れは加速するでしょう。

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