こんにちは。
大学院で、「多文化と偏見教育」をやっています。
人間は多かれ少なかれ、「文化」の中で生きており、実はそこを出るまで「それ以外の文化」が正しいものとして存在することに気づきません。
A社の社風にいるAさんは、B社の社風の存在を知りません。
A社では、会議は椅子に座って背筋を伸ばして聞くもので、必ず女性社員が「お茶だし」をしていました。B社では、全体会議があると、社員は床に座って体育座り。飲み物は自販機で買ってきて勝手に飲んでいます(どっちも日本の会社ですよ……)。
コミュニティごとにも小さな違いがあるものですが、
この大きいのが国を跨ぐとさらに大きくなります。
「多文化および反偏見教育」とはなんぞや
今日ご紹介するのは Seifert, K., & Sutton, R. (2009)の Educational psychology. The Saylor Foundationという論文です。
「多文化および反偏見教育」の項目があります。
私がマレーシアに来てから書き続けているものの正体はコレだ、と思いました。翻訳して紹介します。
まさにその通りで、コミュニティごとに小さな文化があり、中にどっぷりの人はそれ以外の文化が見えないです。日本でも、マレーシアでもこれはありまして、田舎に行くと、驚くほど濃い文化の中に生きている人もいます。
「時間厳守」は人類の共通ルールではなかった件
で、教師はこの文化の違いに気をつけなければいけないとしています。
まさにマレーシアで多くの日本人が感じる時間の感覚がこれに当たるのでは、と思いました。マレーシアやインドネシア語には「ゴムの時間」という言葉がありまして、時間は「伸び縮みするもの」と考える人がいます。(ちなみに私が勤めた日本のコンピュータ系出版社も遅刻が当然の会社でした!)