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「時間厳守」は人類の共通ルールではなかった件

こんにちは。

大学院で、「多文化と偏見教育」をやっています。
人間は多かれ少なかれ、「文化」の中で生きており、実はそこを出るまで「それ以外の文化」が正しいものとして存在することに気づきません。

A社の社風にいるAさんは、B社の社風の存在を知りません。
A社では、会議は椅子に座って背筋を伸ばして聞くもので、必ず女性社員が「お茶だし」をしていました。B社では、全体会議があると、社員は床に座って体育座り。飲み物は自販機で買ってきて勝手に飲んでいます(どっちも日本の会社ですよ……)。

コミュニティごとにも小さな違いがあるものですが、
この大きいのが国を跨ぐとさらに大きくなります。

「多文化および反偏見教育」とはなんぞや

今日ご紹介するのは Seifert, K., & Sutton, R. (2009)の Educational psychology. The Saylor Foundationという論文です。
「多文化および反偏見教育」の項目があります。

私がマレーシアに来てから書き続けているものの正体はコレだ、と思いました。翻訳して紹介します。

文化は、国全体ではないにせよ、広く共有されている場合もあれば、大都市内の小さなコミュニティなど、比較的少数の人々によって共有されている場合もあります。 文化という用語は、個々の家族や社会の専門グループの生き方にさえ適用されることがあります。 たとえば、中には教師が共有する学校教育の文化があると主張する人もいるかもしれません。


 Seifert, K., & Sutton, R. (2009)の Educational psychology. The Saylor Foundation. https://www.saylor.org/site/wp-content/uploads/2012/06/Educational-Psychology.pdf 

まさにその通りで、コミュニティごとに小さな文化があり、中にどっぷりの人はそれ以外の文化が見えないです。日本でも、マレーシアでもこれはありまして、田舎に行くと、驚くほど濃い文化の中に生きている人もいます。

「時間厳守」は人類の共通ルールではなかった件

で、教師はこの文化の違いに気をつけなければいけないとしています。

 たとえば、一部の文化では、人は人とよく目を合わせます。彼らが話している誰か、そして他の人にも同じことを期待しています。 他の文化では、そのような行動は侵入的または過度に攻撃的であると見なされ、話している間アイコンタクトを避けることはより敬意を払うと見なされます. 

 Seifert, K., & Sutton, R. (2009)の Educational psychology. The Saylor Foundation. https://www.saylor.org/site/wp-content/uploads/2012/06/Educational-Psychology.pdf 

違う例として一部の文化では、個人が時間厳守(または時間厳守)であることが期待されますが、他の文化では、時間厳守は過度に強迫的であると見なされ、時間へのよりカジュアルなアプローチが標準です。
Or another example: in some cultures it is expected that individuals will be punctual (or on time), whereas in others punctuality is considered overly compulsive, and a more casual approach to time is the norm. 

 Seifert, K., & Sutton, R. (2009)の Educational psychology. The Saylor Foundation. https://www.saylor.org/site/wp-content/uploads/2012/06/Educational-Psychology.pdf 

まさにマレーシアで多くの日本人が感じる時間の感覚がこれに当たるのでは、と思いました。マレーシアやインドネシア語には「ゴムの時間」という言葉がありまして、時間は「伸び縮みするもの」と考える人がいます。(ちなみに私が勤めた日本のコンピュータ系出版社も遅刻が当然の会社でした!)

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