連作小説「罪人の使徒 ~使徒の仕事は疲れたので神様殺すことにしました~」

プロローグ

 
 勇者が死んだ。

 この知らせはまたたく間に町中へ広まった。

 何者かに刺されたらしい。血を流して倒れている。

 魔王を倒すことは名誉となる。この世界の常識だ。

 そんな人物がまさか、自分が倒した相手と同じ殺され方をするなんて、思いもしなかっただろう。

 彼も、私たちも。

 血にまみれた人間を見て思う。

 いつになれば、何人救えば、私たちは救われるのだろう。

「大丈夫よ。使徒様が安らかにあの世に連れていってくださるわ」

 神々の戒律にしばられながら。

「そう、なら幸せですね」

 世界の広さを知らないまま。

 私たちは天国に行けることを夢みる。

 途方もなく大きい腕の数字と、いつもの景色をみつめながら。

 その頃の私たちは知らなかった。

 この世界の仕組みと彼らの存在を。殺生が悪とされる理由も。

 使徒が、自分たちが何者なのかさえも。

1章

 森の中の教会は、昼下がりになると木漏れ日が静かに降りる。ここ数日曇りが続いて天からのあたたかい方の恵がなかった。

 今はその恵に、ブドウを狩るときの手を伸ばしていると、白服を引っ張られた。

「ノクリアお姉ちゃん、見てみて!」

 ジャジャーン、と手のひらを開けるコゼットが欲しているものがわかった。

「どれどれ……。わぁ、すごいわね」

 少しだけ赤い頬にえくぼをつくって、肩にかかった髪の毛を下ろした。
 白銀で、綺麗に結わえつけられた髪の毛だ。

「そうでしょ。これ、お姉ちゃんに上げるね」

 と言って華奢な手のひらで包まれた花冠が、私の頭にのった。
 温かい、手だ。
 彼女は数歩後ずさりしながら私の顔を見上げて、笑った。

「かわいいよ。お姉ちゃん」

 ドクン! と胸が鳴って。少し、脳味噌が死んだように揺れる。実際死んだことはないのだが、それでもこの娘の可憐な姿を見つめては何も言葉が出なくなって当たり前だ。

 可愛すぎる……。

 青い空の下でこの娘の笑顔を見れることが、私の幸福なのだから。

「ありがとう、コゼット。綺麗な花冠ね」

 私はしゃがんだ。

「お姉ちゃん教えてないのに、どうやってこんなの作ったの?」
「それはねー」

 コゼットは再びにっこりと笑った。

「ユカお姉ちゃん」
「……ぁあ、なんだ。ユカね」

 笑顔が消えないように、顔にちからをこめる。真顔になってはいけない。
 ユカ。あの女に教えてもらったのか。
 こんな表情の私に、コゼットは大きく笑顔になって言った。

「そう。ユカお姉ちゃん、ちょうどお仕事に取りかかる途中だったそうなの。だから私も一緒に行くよって言ったんだけど、気分転換だからって私に教えてくれたの。花冠の作り方」

「そうなのね……。それでユカはどこに?」

 静かに流れていた川を挟んで、草が踏まれる音がした。
 危機感がしたから私は振りかえる。
やっぱりだ……。
 薄い青色のポニーテールときちんと整った眉は彼女の誠実さを表している。

「おはよう、ノクリア。お邪魔だったかな」
「おはよう、ユカ。仕事は終わった?」
「それはもう順調、順調」

 達成感を見せつけるように彼女は頷く。
 私はそっと組まれた彼女の腕に目を移す。
 白衣とも呼べるこの白い上着によって、隠された腕。
 左の上肩あたりを私は凝視した。
 ちょうど、途方もなく大きな数字が書いてある部分を。

「どうしたの、ノクリア? そんなに気になるの、私の数字。そんなに早く『天国の扉』に行きたいの?」

 茶化して言う表情はにこやかだ。彼女の清廉な青い髪の毛が陽の光を反射している。
 流れている雲は向かって進む太陽とすれ違った。
 今コゼットはどんな顔をしているのだろう。
 名のある芸術家が残した一枚の美少女画を想起した。

「別に扉なんて、気にもかけてない。私たちが競い合ったって意味がないでしょ」
「でも、天国には一人しか行けない」

 溜息をつきながら、視線を落とす。
「あくまで、言い伝えでしょ……。お客様の割り当ては完全に順番制なのだから、数字の減り様は平等」
「だけど、お客様によって数字の減りは平等じゃないいえ、この場合公平じゃないと言うべきかな」

 彼女はこっちに向かって歩きはじめた。その長い脚は私の正面で動きを止める。
 そして笑った。

「もう、私たちの仲でしょ。そんな怖い顔しないで」

 ああ、この女。自分から話を振っておいたくせに何なんだ。
 静電気がビリリと頭に走ったみたいだ。
 言い出したあんたが悪い。そもそもコゼットと仲良くすることがなによりの問題だ。

 この女。

「本当に扉になんか興味ない。私は数字の『カウント』なんか気にしてない」

 暗い声で伝えたためか、彼女が少し聞き耳を立てたように思えた。

「そうね……。私も」

 彼女はコゼットの方に近寄ると、そっと頭を撫でた。そしてこっちを向いて、細い指をパーの形に広げて私に見せた。

「じゃあ。また後で、あなたも仕事が入っているのでしょう。失礼には慎みなさいよ、ノクリア。コゼットも。今度は私にも花冠作ってよね」
「うん!」

 コゼットの元気な挨拶に合わせて、私はユカに一瞥くれた。
 笑ったユカは、私たちが暮らすアトリエの方に戻っていった。
 心なしか、ユカの視線はどこか寂しさを含んでいるように見えた。

「ノクリアお姉ちゃん、『天国の扉』って何?」

 言葉に詰まる。
 数秒経って、無邪気に聞くコゼットの頭を撫でる。ユカの手が触った部分を上書きするように触る。

「私たちが、使命を終えた時に通る扉のことよ」

 青い空。優しい太陽。涼しい森。

 八人と暮らした日々を思い出した。
 私は、いつまでここに居られるのだろう。
 いつまで平和な日々を送れるのだろう。

 ふと、コゼットの肩を見る。

 あの女の数字は知れたことではないが、コゼットの数字は大切だ。もし言い伝えが本当ならば、一人しか天国に行けないならば、私は……

 コゼットの頭を撫でる。彼女は嬉しそうに微笑む。

 あなたに天国に行ってほしい。
 大丈夫、私があなたを救うから。

 森を抜けた外に、かなり小柄な人影を発見した。遠くからみても背中が曲がっていて、髪の毛も白だろうということは予想がつく。お客は男の老人だ。

 別に期待なんかしていなかったが、やはり老人だとわかると溜息を吐きたくなる。

 失礼な態度は慎みなさいよ、とユカに言われたことを作業的に思い出す。私はその失礼な態度というのがひどく顔に出やすいらしい。

 この務め、使徒のお客層は高齢に多い。私よりもはるかに長く、この世界で生きてきた者たちが大半だ。だから、時々どころか、仕事を始めてから毎回のように新しい客を求めてしまう。

 真面目なユカは、こういうインテレスティングな面白さを求める私の態度を注意したがる。あの女は、余計なお世話がすぎるのだ。

 仕事をやっていくうえで、フレッシュなおもしろい客を願うくらいは許してくれたっていいのではないか。ずっと老害を相手にするのは疲れる。彼ら、あるいは彼女らは同じことを何度も聞いてくる。大人しく指示にしたがっていれば、身をもってわかるものを、いちいちと確認したがるから……。

 すごく面倒だ。

 あの女と老人で頭がいっぱいになると、苛々しながら私は草を踏み分けた。
 杖をついてちょろちょろしていた老人は、こちらの足音に気が付いたようだ。

 わかってる。ユカが言いたいことは。

「あなたが使徒様ですか?」

 老人の丁寧な声色を聞いて、ユカの顔を思い出す。

 ああもう、出てこないでよ。

「はい。私が今回あなたの担当をさせていただく使徒でございます。あなたに、安らかな旅をお送りいたします」

 私だって、上目だけは丁寧に振る舞うことはできる。

「びっくりしましたよ。こんな若い方が使徒様だなんてね」

 客を連れて、もう一度森の中を進んだ。木に囲まれているから日陰を踏んで歩いた。傍らの小枝の上にはリスが二匹、仲良く会話している姿が見える。

「はい。よくうかがいます」

 年齢という普通失礼な話題について、この客はだいぶ丁寧な聞き方をした。

 よかった。私の苦手なタイプではない。

 以前の客は、私の見た目が若いことに反して、口調がゆっくりだということに焦点をあてて、中身の年齢は高齢なのではないか、と軽率な仮説を立てていた。

 上げたくなった手は上げなかった。

 ユカが思う以上に、私は短気ではないのだ。

「しかし、自分がこんな歳にもなって、使徒様に迎え入れられるとは思ってもいなかったよ。ほら、世間では存在しないなんてすら言われているからね」

「はい。私たちは、お客様以外の人々に見られてはいけないという規律がございますから」

 規律。もっと専門的に言うならば、十戒だ。

 私たち、使徒は十の戒律によって行動を制限させられている。例えばこの老人が歩いてきたであろう森の外は、私たちが足を踏み入れてはならない。

 その代わりに、結界としての森に囲まれた、楽園と呼ばれる地で生活することが許されている。

 食べ物や住む場所に困ることはなく、安心して生活することができるわけだ。

 私は今頃になって、老人が杖をゆっくりついていたことに気づいた。森の穏やかな自然の音を壊さないように配慮をしているのだろう。

「やっぱり、他のお仲間方もいらっしゃるのかな?」

 仲間、ね。

 ユカの顔を思い出す。あいつの顔を思い出すたびに、私の忘れたいものリストは真っ黒になっていった。

「同僚は何人かいます。ですが、ご安心ください、お客様のお相手は私のみが務めますので」

 仕事は一人でするのが規律の一つだからだ。神聖な仕事をけなすようなことをしてはならない。

 言うと客は、慌てたように杖を持っていない、しわしわになった左手をふった。

「いえいえ、わたくし目のご心配は要りません。ただ、使徒様というのは孤独なものだと思っておりましたので」

 そんなイメージがあったとは。天使は普通、複数のあれを想像するものではないのだろうか。

 カチッ、一回だけ杖の音が高くなったように聞こえた。

「お仲間がいたのなら、よかったのです。本当に、よかった……」

 老人の顔の影が少し濃くなった気がした。

 同僚、そうは言っても、一緒に仕事をしたことは一度もない。ただ一緒に農業をして、一緒に遊んで、一緒に食事をとって……。

「おっと、そういえば使徒様」
「な、なんでしょう?」

 視界に映っていたコゼットの遊ぶ姿が、一瞬にして目の先の森に変わった。

「失礼なことに、この御老人、使徒様のお名前を聞いておりませんでした」
「ノクリア、です」

 穏やかな老人の目が、さらに和らいだように見えた。

「ノクリアさん、ですか。綺麗な名前をつけていらっしゃったのですね」

 綺麗な名前か。

 自分の名前なんて興味がなかった。誰が考えて、誰がつけてくれたかなんてわからない。

 それに、もっと綺麗な名前の少女がいる。

「一つ聞きたいことがあるのですが、いいですかな?」
「どうぞ。お応えできるものであれば、何でも返答いたします」

 すると、老人は少しだけ視線を落とした。彼は今どんな気持ちで歩いているのだろう。

「私の、仲間たちは安らかに逝きましたか?」

 老人の深い声色に、私の喉がつまった。

「以前、使徒様にお招き頂いたのですが、覚えていらっしゃいますでしょうか?」
「……そうですね」

 それがどのくらい前の話だったのか、どんな見た目をしているのか、名前なんかもわかれば、ピンポイントに思い出せるかもしれない。
 どれだけの者と使徒としてかかわったかは覚えてない。ものすごく多くの人と関わっているから、ピンポイントにこの人だと思い出すことは私には難しい。

 それでも、いちいち思い出さなくても言えることはある。

「安らかに逝っていただくことが、私たちの使命でございますから」

 仕事として当たり前のことだからだ。

「……そうでございましょうか」

 これで安心してくれるなら、と思う。仕事が遂行できなくなることは避けなくてはならない。

 過去にはわからず屋のせいで説得に時間がかかってしまうこともあったが、この人は物わかりが良さそうで助かった。

「もう少しだけでも、一緒にいれたらと思っていたのでしたが、死というものには抗えませんね。私が最後、残れたことで他の仲間が孤独を感じなくて済んだのなら、と思うのです」

「……お仲間様はきっと、大丈夫でおられますよ。私たちの送り先は、辛い場所ではありませんので」

 このお客が想像しているほど、ひどいような場所に送るつもりはない。
 私たちが、望みたいくらいの場所なのだ。

 老人は仲間のことを口にすると、しばらく黙っていた。

 きっとこれまでのことを思い出しているのだろう。過激だった日や穏やかだった日々を。
 森の結界の入り口から、一キロほど離れたと歩数で認識できた頃、静かな小鳥の声に、水の音が混ざって来た。

「もうすぐ着きます」

 何度も歩いているのに、美しいと思える森。その森とさらに境界があるように、別世界の入り口のように見えるほど神秘的な地だ。

「ここが、私たちの儀式を行う地です」

 虹色の滝を見て、客は言葉を失ったような表情をしている。
 やっとこの穏やかな老人からも、微かな動揺が感じられた。

 森の最も穢れがない地、この最も神聖な場所で私たちは仕事を行う。客たちを送るのだ。

 老人は私が手にしている白装束に驚いているようだった。その丁寧な口調で、どこから、どうやってだしたのでしょう、という言葉を失っている。ここからはスムーズに、落ちついて、冷静に対処しなければならない。

「では、こちらの服を羽織っていただますか」
「……はぁ、わかりました」

 何も抵抗をせずに老人は、白装束を身にまとった。こんなことは最後まで思いたくもたかったのだが、やはり絶望的に似合っていない。

 この服自体は何も特別ない普通の白装束だ。何も痛いなんてことはない。ただ、より神聖な場所、神聖な雰囲気を客に感じさせるためにはとても効果がある。

 そう教えられてきた。

「では、心を穏やかにしてください。あと五分程度で儀式を始めます。質問がありましたら今のうちにお願いします」
「ノクリア様」
「はい」
「儀式が始まったら、私は何をすればいいのかね? どうもあらかじめに聞けるだけのことは聞いておきたいのです。この歳になるとすぐに対応できない場合がございますから」

 しわがれた声には微かな心配が声ににじみ出ていた。

「質問をお答えて頂く場合がありますが、他はこちらの指示に従っていただくのみで特に迅速に行っていただく要望はございません」
「そうでございますか。私は、ノクリア様がおっしゃった、ことを信じております。痛いことはないと」
「はい、痛いことはなんともありません。安らかな旅をお約束します……。あと、今のうちに過去のことを思い出されていくことがよろしいかと思われます」

 少しの沈黙の後、老人は少しだけ微笑んで言った。

「はい。思い出しておきます」

 約五分の沈黙を用意し、私は心構えを整える。
 この老人を送るのだと。そのために必要なことをこれから行うのだと。
 大丈夫だ。何も怖くはない。緊張する必要はない。
 この老人は穏やかなのだから。

「それでは目を閉じてください」

 安らいで眠るように老人は、重そうな瞼をゆっくりと閉じる。

 大丈夫です。

 聞こえないのは承知の上で、心の中で呼びかける。
 使徒は客観から見て、悪いことはしていないのだから。

 私は錫杖を一度、この神聖な空間に一滴落とした。
 滝、小鳥、緑の音を、鈴の音が一つに吸い込んだ。
 そっと右手のひらを、老人に向けた。

「これからあなたが向かうべき場所をお探しします。少し眩しいですが、どうかお気になさらない努力を」

 老人の足元が光る。丸い、陣のような模様をもった光が上昇する。光は風になびくカーテンのように揺らぎだす。
 確かに術は使うが、全く痛みなんかない。

 私は授かった紅い錫杖を両手でつかんで力を込めた。

 使徒に導かれし者には共通点がある。

 老人の過去が紛れてくる。老人がまだ若かったころだ。身長が高く、背筋が伸びていた頃。
 まだ若い、冒険者として生きていた頃。
 魔境に生まれたモンスター、黒いドラゴンの首を狙う者たちの姿。さかのぼって彼らがパーティの結成を祝うために交わした盃。さらにさかのぼって、若い彼が真っ白な羽衣の女神に刃を隠した剣を預かる姿。さらに時は流れ、若い彼が神殿のような場所で膝をついて視線を泳がせている様子。

 ここだ、と瞬時に使徒としての感覚が反応した。

 ユカのことを小馬鹿にしたくなる気持ちを抑えて、身を震わせながら更に過去を漁る。

 暗闇の中を力の入っていない腕を上に、昇天してゆく彼、四角形に区切られた石の天井、彼に呼びかける女の声、小鳥に似た耳に響く音、水たまりに溶けるどろどろした血液。

 私は術を停止する。

 ここだ。

 何度も見てきた、ラベンダーの花の蜜に毒を混ぜたような匂いの場所。

 ここがこの老人が戻るべきところなのだ。

 ヴェールに包まれた彼に目をよせると、儀式開始時と以前変わりなく穏やかな顔つきのままでいる。

 私は彼に必死に伝えたいのを我慢する。

 見つけました。ご老人。安心してください。ここが、あなたが帰る場所です。安らかに旅をできる場所です。

 これでお仲間たちと……、旅の人々と会えます!

 使徒に招かれる者は一般に老いた者が多い。

 それは人間の姿に似ている者であれば、全く別のトカゲのような姿であったり、鬼のような姿であったりする。

 この老人は間違いなく人間としてこの世界で老いてきた者である。

 老人を包む光が徐々に彼の身体を昇天させていく。光は空まで上ってゆく、他に何も寄せ付けないように、青い空に昇ってゆく。

 しかし、一見ちがった種族の彼らにも共通点がある。

 それは、現世から転生してこの場所に来たという事実だ。

 転生した人間の、転生する前の場所を使徒は探して、そこに送り出す。

 それは同時にこの老人の、現在に至るまでの時間を辿ることとなる。痛いことはない。数多の細いヴェールに包まれて、彼と一緒に出来事を辿り、彼が元いた世界、現世に送り帰す。

 あと少しで終わる。しかし、私は何度もこの使命を果たしてきていつもここで躓いてしまうのだ。

「……いや、やだ」

 突然、老人のおっとりした顔に皺が刻まれる。

 ほら始まった。

「もうすぐ現世に変えることができます。この世界での苦痛などおいてゆけるのです」
「帰りたくない!」

 宙に昇りながら、老人は叫んだ。
 やめてほしい。変に術が乱れてしまう。

「何も不安はございません」
「やだ、やめる。行きたくない。戻りたくn……」

 戻りたくない。

 オーブのように小さな粒子となって天に昇った彼の表情から、そう言われたような気がした。

 残念ながらこの世界で年老いるより、現世で暮した方が幸せだ。それに術を中断することはできない。

 カウントが減らせなくなってしまう。私たちがいつまでも天国に行けなくなる。

 老人が散った空を見上げた。

 私たちは、生まれたたときからこの仕事を行う義務がある。

 今回、彼は勇者だったのだから、数字は大きく減ったはずだ……。

 数字は、送った対象者のこの世界での業績に応じて減量する。さっきの記憶を思い返すかぎり、今は老いぼれの勇者は黒いドラゴンを倒している。ならば、百ちょっとは減っただろう。

 空の光が完全に消えると、私はその場に座り込んだ。

 この世界より、よほど豊かである元の世界に帰れるというのに、客たちはいつも反発をしてくる。

 そのせいでこの仕事は本当に骨が折れる。術を継続させる体力も必要だ。だからコゼットがこの仕事を数回しかこなせていないことは自明なのだ。

 数字がなくなれば、カウントがゼロになれば私たちは天国への扉に招待してもらえる。

 私たちは天国、つまり現世と呼ばれる場所に行けるのだ。

 なら、最初から使徒同士で転移術を使えばいいと思うかもしれないが、残念なことに戒律で禁止されている。

 そう言われてきたのだ……。

 息を切らしながら私は周囲を確認して、袖を捲った。数字を確認する。

 大丈夫、コゼット。私はあなたを必ず現世に戻すから。

 袖を元に戻し、私はもう少しだけこの誰も立ち寄れない神聖な場所で身体を休ませることにした。

 私が、あなたを必ず救うから。

 滝の上流のさらに上を流れる雲は、大きかった。
 白くて、とても大きく見えた。

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