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道徳と思うな。リベラルアーツと思え。

人を自由にするための学問

 日本の教育では小学校からずっと「正解」を求める勉強をしてくる。だから物事には正解があって、それを答えられれば優秀だと思い込んでいる人が多い。

 しかし現実社会では「正解を見つける」ことよりも、ほかの人たちの立場を理解し、他人の主張を聞き、自分の主張も述べ、多様なものの見方を身につけることが重要になってくる。多様な見方ができるとは、「他の人の言っていることを鵜呑みにしない」ということでもある。
 どんな偉い人が言ったことでも、必ずしも正しくないかもしれない。ある時代のある場所では正しくても、ほかのところでは通用しないかもしれない。だからそれをすぐに信じてしまうのではなく、自分の頭で考え、自分のハートで感じ、自主的に判断し行動することが求められている。そしてそうやって自分で判断するためには、たくさんのことを知っておかなければならない。(参考:東京工業大学 上田紀行教授)

 歴史を見ると分かるように、そもそも政治的な動機から始まった道徳教育だが、現在は「答えのない問題について、考え、議論する」ことを推奨している。与えられた問題に答えるのではなく、考えるべき問題を自分で見つけることが大切になってくる。実はこれを追究していくと、リベラルアーツに近づいていく。

 リベラルアーツとは『人を自由にするための学問』という意味合いであり、精神的に自由であることを目指す。「精神が自由」とは「精神が奴隷的」ではないということ。
 「精神が奴隷的」というのは「人が言っているから」「社会がこうだから」「今までこうしていたから」と世間の常識や慣習に疑問を抱くことなく発言したり行動したりすることをいう。自由精神を持った人間は、たとえ結果的に同じ行動をすることになっても、必ず自分で考え納得した上で行動する。

見えない鎖を断ち切る

 「考え、議論する」授業はリベラルアーツに近い。しかし、それを「道徳」と称して特定の規範意識に落とし込もうとすると矛盾が生じてくる。 
 そもそも精神の自由を否定する「修身」からスタートしている「道徳」の枠組みの中で、精神の自由を希求するリベラルアーツを学ぼうというのだから、真剣に考えれば考えるほど自縄自縛となっていくのは当然だ。
 
手足を縛られた状態で、「私は何でこんなに不自由なのだろう」と悩んでいるようなものである。

 ではどうするべきなのか。
 まずは、「特定の規範意識に落とし込まなければならない」という手足を縛る見えない鎖を断ち切ることが必要である。「いかに指導要領に合わせるか」ではなく、「どんな授業をすることが、目の前の生徒たちのためになるのか」を考えることだ。
 我々の仕事はすべて「子どものため」でなくてはならない。指導要領も「生徒のため」の授業づくりをするために「参考書」として使うならよいが、それに縛られて、やりたい授業ができないのでは本末転倒である。

 「考え、議論する」子どもを育てたいのであれば、まずは教師が「考え、議論する」大人でなければならない。どういう道徳授業をすればいいのかマニュアルを求めるのではなく、自分の頭で考え、他の先生たちと議論し、子どもたちと一緒に授業を作っていくことが大切である。
 子どもたちは、雲の上から完璧な指示す先生よりも、一緒に失敗しながら成長していく先生を信頼する。そして信頼する先生の言葉は、どんな完璧な授業よりも子どもたちを成長させると、私は考えている。

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