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熱帯雨林=資本主義=部活

『僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?』より

 かつて、このような話を聞いたことがあります。

 『生存競争が激しい熱帯雨林に生息している樹木は、どの木も、隣の木よりも多くの光を得ようと上へ上へと伸びる。ところが、それでは「影」に隠れてしまう木が出てくる。その影に隠れた木々は、太陽の光を得ようと、他の木と同じ高さまで伸びようとする。もしくは、一番高く伸びて、光を独り占めしようとする。
 すべての木が同様のことを考えているため、熱帯雨林の木々は非常に背が高い。ところが、ふとその熱帯雨林を俯瞰して全体を見渡してみると、光を得ているのは最上部の葉っぱだけだということに気がつく。一生懸命背伸びして、高いところにたどりつこうとしているが、日が当たっているのはごく一部なのである。
 そして、より大事なことは、すべての木の背が低くても「各樹木が得られる光の量は同じ」ということだ。
 自分だけ太陽の光を得ようと競い合って伸びても、誰も何も考えず「当初」の高さでとどまっていても、「得られるもの」は同じだったのである。』

 この指摘は、資本主義経済に生きるわたしたちの姿をよく表していると言えるのではないでしょうか?
 ほとんどの人は、より多くの光を得るために「他人よりも上」に行こうとします。ところが、他人も同じことを考えており、みんなとりあえず上を目指して生きています。その結果、熱帯雨林の木々と同じように、最終的に得られるものは「競い合う前となんら変わらない」という状況に陥っているのです。

 では奪い合う前とまったく同じ状況なのかというと、そうではありません。何が変わったのか?
 奪い合う前に比べて、幹が異常に長くなってしまっているのです。その大きく伸びた幹を維持するためには、より大きなエネルギーを必要とします。
 熱帯雨林の木々と同じように、わたしたちもやみくもに「他人よりも上」を目指すと、得られる「光の量」は変わらない一方で、競い合うだけ体力や気力、そして時間を失います。他人と競い合う過程でエネルギーを消耗し、ストレスを受け、疲弊していくのです。
 結果的に「得られるもの」は同じだったからといって、失った体力・気力・時間が戻ってくるわけではありません。この分は「無駄に」消耗してしまうのです。

 競争が悪い、と言いたいのではありません。競争がなければ、人間社会の進歩は止まってしまい、いまのように便利な世の中は実現されなかったでしょう。しかし、成長や競争には、本来目的があるはずです。そして、目的に対して「適度な成長」「適度な競争」があるはずです。
 「人よりも上」「今よりも多く」を目指すのではなく、人間ひとりひとりが、その適度な成長・競争を踏まえた「全体として最良な選択肢」を選ぶことができれば、「みんなにとって好ましい生き方」「みんなが幸せになれる社会」が可能なはずです。
 やみくもに上を目指しても、結果的にえられる光の量は変わりません。だとしたら、「適切なレベルの目標」を見据えて、みんなでそこにとどまればいいはずです。しかし、各自が自分の利益を追求したり、「他人よりも上」を目指した結果、全体としてだけでなく、自分にとっても「悪い結果」になってしまいます。
【引用おわり】

 私が何を言いたいのかお分かりいただけるでしょうか?
 「部活もまったく同じ」だと感じるのです。
 みんなが「もっと上」を目指し、競い合う。全体としてレベルは上がるけれど、勝ったときの感動は、全体のレベルが低かったときと変わるわけではありません。

 上を目指すことや競争を否定しているワケではありません。しかし、部活のレベルアップを素人教員の無償労働に依拠してきたため、幹が異常に細くなってしまっているのです。もう無理なのです。
 実際に、「部活があるから教員になるのをやめた人」「部活が苦しくて教員を辞めた人」「部活によって家庭が壊れた人」「部活のせいで命を失った人」がたくさんいます。

 教員は授業のプロであり、部活のプロではない。
 部活を学校から手放そう。

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