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【ネタバレあり】震災後の世界からのエヴァンゲリオン

先日シン・エヴァ見ました。本当は順を追って感想を上げたいところですがまだ自分の中で咀嚼できてないとのあるし、今は色んな人の感想や過去に庵野監督が残した作品やヒント、監督の現実の生活を書かれている「監督不行届」とかを読んでみたりして自分の中に溶け込ませている感じですね。そういう行為こそがシン・エヴァのテーマから剥離してるのかもしれないけど……。でも自分の中の鮮度も日が立つごとに非可逆的に減っていくし、よくも悪くも新劇場版エヴァンゲリオンという作品に影響を及ぼした東日本大震災から紐解いてみたいかなと思います。俗に言うAパートが主。例によってシン・エヴァのネタバレ全開でいくのでエヴァに大なり小なり思い入れある人はまっさらな気持ちで劇場に向かうことをおすすめします。「知らない」という状態で入れるのも不可逆的なので。



では本題。シン・エヴァの前にまずエヴァQの話に行きたいと思います。破で提示された次回予告から大きく、というかぜんぜん違う話が出てきて面食らった方は多かったはず。私もそうです。内容は割愛しますが、シンジくんの破で起こした(起きてしまった)ニアサードインパクトで世界が崩壊した世界を(早合点で)救おうとして結局失敗してPTSDみたいになってしまい、コア化した赤い大地にほっぽり出されるけどアスカがだらしないわねえと怒りつつもしゃんとしなさいと半ば強引に、アヤナミ(仮)も連れて次の目的地へ歩いてくと行った形で終わります。自分は当時その描写に昨年起こった311で破壊された世界と、それでも生きてる人は歩いていくんだといったものを感じて庵野さんも色々思うことあったのかなあと思いました。実際元にあったプロットから震災をえて付け足した部分があるという話もあるみたいですね。

そしてシン・エヴァの話。エッフェル塔ドーン!をした後Q後の赤い大地を歩いていく3人が流れ、後にジープ(だったかな)が向かいに来ます。シンジが疲れて眠ってしまったか気絶した?か忘れたけど、とあるベットから目覚めるとなんか聞き覚えがある声が!と見ると成長したトウジがいて、ヒカリがいて、しかも二人は結婚していて赤ちゃんがいて、ケンスケもでてきてしかもアスカがケンケンとか言い出した!?とかいう喜びと驚きが同居するスタートでやるな庵野…!とか思いながら見てたんですが、そこで今まで殆どエヴァの世界では書かれていなかった庶民たちの描写、「第3村」の生活が書かれていきます。そこではニアサードから14年後の世界、崩壊した世界でも人々はよりそい、ヴィレの支援も受けつつも老若男女が集まり、おばさん達は田植えをしていたり、トウジは独学で医学を学んで診療所みたいなことをしていますし、ケンスケは元々のサバイバル趣味が高じてか村の設備を整備したりフィールドワークを行って自然環境観察をおこなっていたり、ヒカリは赤ちゃんにお乳を与えていて次の生命を育んでいてと。出てくる村民の人たちやそこに出てくる猫やペンペン(ペンペンいきてたのか!?)も妊娠していたり仲間や子供たちとともに暮らしていたりします。この崩壊した、それこそいつまた崩壊するかわからない世界でも人や自然は生きていくんだという力強さをQのエンドからより強く描写されていて素敵でした。エンドクレジットにもジブリの名前があり(しかも横に出典トトロとみたいな事かいてあったし)しますし、震災後に庵野監督、宮崎監督と震災地に行った経緯もあり、実質庵野監督版ジブリ作品となっているんですね。遡れば旧劇でのポスターが「だからみんな死んでしまえばいいのに」と書いたのに対して宮崎監督のもののけ姫でのキャッチコピーが「生きろ」だったり、昔していた課外授業ようこそ先輩(NHK)で庵野監督がでていた回があるのですが、小学校の頃書いていた絵は煙突と電柱電線と工場群と山だけかいてあって人は書いてなく、当時の先生から変な絵だと言われていた庵野監督の美的センスが(第3新東京の夕日のシーンとか正に此処から来てると思う)遂に自然と人々の生活をこんなに丁寧に描写するようになったかと、成長したな庵野……と思いながら見ていました(お前は庵野監督の何なんだよ)。

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その第3村での暮らしを通して、今まで空っぽの器のような存在だったアヤナミ(仮)は、プラグスーツに麦わら帽子かぶって農作業したり、お風呂に入ってぽかぽか(肉体として)したり、猫や子供たち、おばさんたちやお母さんのヒカリとふれあっていろんな言葉や気持ちを学んでいって少しづつ「ヒト」らしくなっていく、一方でカヲル君のあれを見てPTSDなシンジはケンスケやトウジにずっと此処にいても良いんだぞと優しくされたり、貴重な出された飯を食わなくてヒカリの親父さんに失礼だぞと怒られたり、アスカとケンスケが暮らしてる人里離れたプレハブに連れられてもずっと自分の殻に閉じこもったり腹も減るはずなのに食わないから無理やりレーション食べさせられたりとして、結局旧ネルフの施設跡に家出するわけですが、みんな無理に声はかけずとも見守ってくれたり、空っぽだったはずのアヤナミ(仮)が心配しに来てくれたりして、なんでみんな優しいんだよ!と今まで限られた世界しか知らなかったシンジは戸惑うのですが、結局腹も減るので最後は観念したかのようにレーションを貪るように食べるんですね。このシーンシン・エヴァの劇中の中でもかなり好きなシーンです。エヴァとは関係ないのですが「NHKにようこそ」というアニメにも引きこもりの主人公が窮地に立たされて引きこもるのですが、結局腹は減るのでバイトにでかけて日銭を稼いで弁当を食べて立ち直って自立していくシーンがあるのを思い出しました。人は仙人じゃないから社会にいる以上飯食ってなにかしら働くしかないのよな、しんどいけどさあ。
シンジも食べることで社会に参加するので、家出は継続しますがケンスケから釣り道具を渡されてヘタなりに魚釣りを行ったりして生活をしていきます。その中でケンスケに連れられてコアに侵された外部調査に行き、そこでQで心が離れてしまった(と思っている)ミサトさんと恋人だった加持さんの中で生まれていた好少年の加持リョウジ(息子)と出会ったり、トウジから自分もここまで村を発展させるまでには色々した、お天道様に顔向けできんこともした、でもそれらをみんなで乗り越えていけたらからヒカリと結婚できたし子宝にも恵まれた、「ニアサーもすべてが悪いことじゃなかった」と伝えてくれました。実際彼らも大人になり、結果としてニアサードインパクトは起こってしまったけど、元々としてシンジが戦ってくれなかったらニアサー以前に使徒に新東京や世界は破滅させられていたのを十分理解してくれているんですね。だからこそ、シンジは十分戦った、ずっとこの村にいても良いんだよと伝えてくれます。Qでわけもわからないまま世界から拒絶されたと思っていたシンジくんですが、少し視点や世界を変えればそんなことはないと体験します。

話は前後しますがシンジがケンスケと彼の父のお墓参りに行くシーンがあります。ニアサーを生き残った親父なのにある日交通事故で死ぬとは思わなかったよとケンスケは語り、俺の親父もいい親父とは言えなかったけどシンジも生きてるうちに親父さんとはなししといたほうが良いぞと伝えます。勿論この言葉は後半のシンジとゲンドウとの戦いの伏線になるのですが、僕自身としてはニアサードインパクト≒震災で亡くなった人も沢山いるけど、それと同じように何気ない日常から突然人はいなくなる、死は等価値なんだよといったメッセージなのかなと感じました。それは逆にみるとニアサードインパクト(震災)を無理して特別大きく捉えずに、まずは生き残っている俺達の日常をしっかり生きていくのが一番の供養になるんだよっと言った事を感じました。それが後半のミドリの「明日生きていくことだけを考えよう」のセリフにも繋がっていくのかなあって。ぜんぜん違うかも知れませんが。

第3村で少しづつ心が回復していくシンジだが、一方で仮初の命と体であるアヤナミ(仮)も、自分の死期が迫っているのを悟ります。最後は消える前にアヤナミ(仮)からシンジにまた会えるためのおまじないとしてヒカリから教えてもらったさよならを伝えてパシャッと逝ってしまう。結局はアヤナミ(仮)を泳がせていたのもゲンドウの自分がユイを失った気持ちを体験して(俺の気持ちをわかって)ほしかったという事だったのですが、それがシンジの中でカヲルくんとの別れを再度思い出し、綾波がいないことを改めて思い出し、親父に落とし前をつけに行くと気持ちを定めたのは皮肉なのかシナリオ通りなのか。といった感じでヴィレに乗り込むところでAパートは終わります。

こっからゼーレVSヴィレが始まって色々あって、まあなんだかんだで世界がまたフォースインパクト?で崩壊していくのですが、第3村の周りのコア化している赤い大地からもまるで大津波のように襲いかかってきて、恐怖する村民達が映し出されるのですがトウジが「ニアサーを生き残った俺達や!今回も大丈夫やみんな!」みたいなこと言うのですね。ここの描写も本当311思い出すようで下手なゲンドウの脳みそグロよりよっぽどど怖かったんですが、もうこういう演出を入れれるようになれたんだという時の流れを感じたり、劇中でいうトウジの台詞が劇中では津波だけど現実での流行り病に対しての叫びにも感じて強くなったな庵野……と思いながら見ていました(だからお前は監督の何なんだ)。

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と、こんな感じで震災からの影響を受けたと思うAパート中心に僕の考えを書いてみました。シン・エヴァの映画自体の評価だと長いし台詞多いし説明させすぎィ!みたいなところもあるし、エヴァンゲリオンと見てもここはわかるけどここはその回答なん!?みたいなところもあるしでまだ飲み込めきれてないところがありますが、新劇場版シリーズを通しての「庵野秀明物語」として見るとそれは腑に落ちるところもあるし、ありがとうとお疲れさまでしたと伝えたくなる作品だと思います。僕も多分もう一回は見に行くと思います。エヴァンゲリオンとしてはまた違う作品は出てくると思いますが、庵野秀明作品としてのエヴァンゲリオンは多分今作で終わりだと思いますが、もしかしたらまた会えるかも知れないという願いも込めて「さようならエヴァンゲリオン」と言葉を贈りたいと思います。
ご拝読ありがとうございました。

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