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お金稼ぎをしたいのであれば、お金というモノを知るところから

やぁ!
ビジネス系Vtuberの豊島梟です!


「お金を稼ぎたい!」
 という話を私の周りの学生や起業を目指している人は言います。
 私も起業当初はそうでした。

 お金を稼ぐ。これは現代社会でとても重要なことです。お金がないと生きていけません。

 お金を稼ぐために重要なのが、お金という存在自体を深く理解すること。なにかを手に入れたいと思った時、そのモノについて調べるということを今まで一度はしてきたと思います。
 お金という「概念」も一種のツール。そのツールを手に入れるためには、手に入れる方法を理解する必要があり、その方法を理解するためにもお金について詳しくなっておく必要があります。

 そこで、今回はお金について歴史から語ることにしましょう。

そもそもお金が存在する前はどう生活していたのか?

 現在の通説では「物々交換」です。これは小学校の頃に社会科の授業で聞いたことがあるという人が多いのではないでしょうか。

 狩猟・漁師・農夫など、様々な得意分野を持つ人々が、各々の食料を多く確保し、その余分な量を必要に応じて不得意分野の食料と交換しておりました。これは、食料以外のものが交換対象にあることもあったそうです。

 ただ、この方法では、相手が自分の持っているものを欲しいと思わないと、相手のものと交換することできませんし、食料同士の場合は鮮度の問題や品種によって価値が釣り合わないという問題も発生します。

 そこで代用された方法が「物品交換」です。

 比較的価値が下がりにくいもので交換するという方法を採用しました。塩・貝殻・布・砂金などと「もの」を交換します。

 お金のご先祖様と思うとわかりやすいかもしれません。

 しかし、これにも欠点があります。勘がいい人であればわかるかもしれませんが、布や塩、貝殻は物品交換を行わなくても製造や入手が可能ですし、砂金については銀と金の配合率を変えると偽造が簡単で、適正な価値での取引が困難になるケースがありました。

 そこで登場するのが、どの条件下でも同じ価値を持つ「貨幣制度」です。

新貨幣論

 皆様は新貨幣論という言葉を知っていますか?
 経済学者の間で「物々交換や物品交換の発展形として貨幣制度・通貨制度が作られたわけではない。」という説です。

 前述の結論部分を完全に否定する説となります。

 新貨幣論では、貨幣制度はどうやって始まったと考えられているのか。

 新貨幣論の根底として

「人々の取引は請求と支払いから成り立つ。」という考えは貨幣制度が導入される前からあった。

というものです。

 ミクロネシアのヤップ島にある「フェイ」という大きな石や、メソポタミア文明における「トークン」を使用して、人々は取引内容を記帳し生活を営んでいたという形跡を発見したのです。
 フェイは直径が30cmから1mに及ぶものもあり。貨幣のように取引のたびに受け渡しするものではありませんでした。実際には冠婚葬祭などの贈答品や取引で差額が発生した場合にのみ「所有権」が移転したようです。

 普段の取引内容は「記帳」することにより履歴や残高などを管理していたようです。

 同様に、メソポタミア文明のトークンについて、1970年代の考古学者は、各トークンは穀物や家畜を表しており、それを数えることで財産を記録していたとしています。更に、取引のたびにトークンを管理棚から監理棚へと移動されば入出庫管理ができ、棚にあるトークンを数えれば在庫計算ができたということです。

 つまり、物々交換や物品交換が行われていた確実な形跡はないとしたうえで、一定の債権・債務の仕組みは貨幣制度が始まる前から存在しており、もっと広く交易を発展させるために貨幣制度を導入した、というのが「新貨幣論」ということです。

 この考えを一言でまとめると、今我々が目にしている1万円札・5千円札・千円札・500円玉・100円玉・50円玉・10円玉・5円玉・1円玉はただの紙切れや金属に過ぎないということです。
 つまり、貨幣はあくまでも「債権・債務」の取引やその根拠となる信用取引を具現化したものに過ぎないということです。

 今の通説と新貨幣論はまだまだ研究の余地があるので、新貨幣論が絶対!というわけでもないですし、通説も正しい! というわけでもありません。が、もしかすると今後通説が入れ替わるかもしれませんね。

日本でお金が発達した経緯

 日本での最古のお金は、中国の「開元通宝」という貨幣をモデルに708年に作られた「和同開珎」と言われています。
 和同開珎は710年に新しく都となった平城京造営に伴う、労賃や資材購入などの支払いのために発行されたと考えられていますが、さらに前の7世紀後半に作られた「富本銭」が、奈良県明日香村や平城京跡だけでなく長野県などでも発掘されています。
 なので、和同開珎が最古の貨幣なのか、富本銭が最古なのかはまだまだ研究されておりわかっておりません。

 日本で初めての貨幣統一制度が始まったのは徳川家康の時代と言われています。天下統一した徳川家康は、全国の金銀鉱山を直轄化するとともに、貨幣を作る技術を管理し、金貨・銀貨の製造体制を整備しました。
 そして、国家として大きさ・重さ・品位などを統一した金貨と銀貨を発行するのです。
 中世から引き続き使われていた銭貨は。江戸幕府が発行した寛永通宝に統一されることとなりました。

 同じ江戸時代では、各藩が幕府の貨幣や米など価値のあるものと交換を保証し、領内で流通させる「藩札」が発行されました。発行開始から明治時代初期までに200を超える藩で発行されていたとされています。

 1958年、日本は米国など5カ国と通商条約を結び、海外との本格的な貿易が始まりました。当初、国内では金が銀と比べ格安となっていたため、金貨が海外へ流出します。海岸線の防衛の強化や幕末の政治の混乱が内戦を招く中で、財政支出に充てるため貨幣の発行量が増加し、インフレが進行することになります。

 明治時代を迎えた新政府は、両建ての金貨・銀貨・紙幣を発行する一方、藩札の発行も認めていましたが、社会混乱が続き、新政府や藩などが増発した紙幣の価値は下落します。

 こうした中、1871年に明治政府は新貨条例を制定し、全国統一の新しい通貨単位である「円」の導入を行い、金貨・銀貨・銅貨を発行しました。

 また、金貨と交換できる「兌換」を前提に政府紙幣を発行しますが、政府の手元にある金銀がふそくしていたことから、どの大部分は不換紙幣となってしまいました。

 不換紙幣とは
正貨(=金、銀など)に兌換されない紙幣のことを言います。
つまり、兌換紙幣は金や銀に交換できるよ。という紙幣のことであり、不換紙幣はそれができない紙幣のことです。

 明治初期には、海外貿易や国内産業の振興を金融面で支えるため、欧米をモデルにした民間銀行が各地に設立されました。このうち、国立銀行は米国のナショナルバンクをモデルとしており、紙幣の発行が認められていました。

 西南戦争の費用などを賄うため、政府紙幣や国立銀行紙幣が増発され、紙幣価値の下落が進みます。こうした中、大蔵卿となった松方正義は、銀行券を発行して紙幣の発行を一元的に行い、お金の価値を安定させることを目指し、1882年に日本銀行を設立します。しして、1885年には最初の日本銀行券が発行されました。

 なお、1885年から1899年までに発行された日本銀行券は、銀貨との交換が可能な兌換銀行券として世の中に流通していました。

 1899年末には、国立銀行紙幣と政府紙幣は流通停止となり、紙幣は日本銀行券に統一されました。

 ちなみに、この時使われていた兌換銀行券の中でも、1円札だけは現在も「1円」として利用することができます。まぁ、1円玉と同じ価値で利用するより、お札マニアに高額で売ったほうがいいかもしれませんけどね笑

 現在のお金の発行の仕組みについては、次の機会にお話します。

まとめ

 お金の起源や歴史を辿ると、その次代の人がどのような経済活動を行っていたのかを垣間見ることができます。

 さらに、貨幣が先か、経済システムが先か、といった議論まであるんのは知っている人は少ないのではないでしょうか。

 今までの常識がどんどん変わる瞬間を目の当たりに出来る…かも?

日本銀行金融研究所 貨幣博物館
などでお金の起源や歴史についてもっと詳しく知ることができるので、気になる方はぜひ行ってみてください!


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