センチメンタルという自分勝手
本編
カチ・・・カチ・・・カチ・・・。
物の音っていうものには人ぞれぞれのとらえ方がある。
そんなことを教えてくれる人がいた。
ぼんやり思いながら目の前にある時計の秒針を見つめている。
6月21日。
それは私の28歳の誕生日。
時計の針は短い方も長い方も身を寄せ合おうとしている。
あと何回か秒針の「カチカチ」を聞けば完全に重なり合う。
28歳の誕生日。
それをあと何秒かで迎えようとしている。
もちろん1人。
強がって言えば、今回は1人でいたかった。
カチン・・・。
ついに時計の針は身を寄せ合うことに成功し、6月20日は終わりを告げた。
「はは・・・おめでとう、28歳の私。」
誰もいない空間にそう呟く。
そして手のひらを見た。
そこにあるのは1人の電話番号。
ただの数字の羅列だけど、これほど残酷な羅列はないと思うほど今日は感傷的だ。
数字の下にある緑の発信ボタンを何度も押そうとしてやめる。
さっきからその繰り返し。
いい加減、踏ん切りをと思うのだけど、データを消すことも発信ボタンを押すこともできない。
数字と一緒に表示されている名前。
それは5年前まで「彼氏」と呼んでいた相手だった。
そう、私は今元カレに電話しようとしている。
「別れた相手に何で電話なんかするの?」
って他の人には言えた。
だけど知っている。
この虚無感は彼にしか満たせないこと。
そう思い込んでいるのはきっと自分だけだということも・・・。
私と元カレの出会いは大学時代。
同じ学部で同じ専攻で同じゼミで。
事あるごとにイベントは一緒に過ごした。
「付き合おう。」なんて言葉は1回もなかったけど、いつも一緒にいたし楽しかったし、デートにもいったし。
付き合ってる状態でしょ?って思ってた。
変に背延びがしたくて大人の恋愛なんだからいちいち言葉にしなくっても始まってる、そういうもんでしょ?なんて思ってた。
全部不安の裏返しだったけど。
元カレの大樹(たいじゅ)は本当に優しくて、私を裏切るようなことはなかった。
照れ屋で、正直者で、話ベタで、方向音痴。
人からすれば欠点に見えるところも全部愛しくて、思い出すだけでキラキラ輝いているような瞬間。
それが私と大樹の時間だった。
「フフ。」
と大樹のことを思い出して1人で笑ってから現実に引き戻される。
そう、28歳の私の隣に大樹はいない。
もう一度、右手の中にあるスマホをみた。
表示されているのは変わらない番号と名前。
なんて切りだそう。
「元気?久しぶりだね~。何してんの?」
これはきっと1ターンで終わる。
「そういえばさ、大学の時の岡崎教授覚えてる?退職しちゃったんだって。」
これもきっと1ターン。
そんなことを考えていると身を寄せ合っていたはずの時計の針は一気に別れを告げ真反対を向いている。
「そもそもこんな時間に5年も前に別れた元カノから電話って非常識すぎる。」
そうだそうだ。
「相手はもう寝てるかもしれないし、明日仕事かもしれないし。」
そうだそうだ。
「もしかしたら携帯の番号変わっちゃってるかもしれない。」
そうだそうだ。
そんなこと、スマホを開く前から分かってる!!
それでもこうして煮え切らないのは、大樹の声が聞きたいから。
きっと今日を逃したら連絡とりあうことなんてないから。
「ええい!!!」
何の景気づけか、変な言葉を言いながら緑のボタンを押す。
ツッツッツッツッ、と何かをはやし立てるような音。
そして堰を切ったように溢れだすコール音。
スマホを持つ手が震える。
耳が熱い。
唇が震える。
突然の、静寂。
そして耳朶に届く声。
「はい。」
短かったけど、確かに大樹の声で。
誠実で透き通った大樹の声だった。
思わず滲む自分の世界に泣きだしそうになっているのだと気付いた。
「あ、あ、あ、ごめんね~ヘヘヘ。こんな時間に。大樹だよね?私、葵(あおい)。覚えてる?」
「うん。」
気持ちだけが焦る。
大樹が私のことを忘れるはずなんてないのにこんな聞き方をするのは弱い私。
「遅くにごめんね。寝てた?」
「いや、大丈夫。」
「ごめんね。なんか・・・本当にごめんね~。」
泣いてるのを気付かれたくなくて笑いながら話す。
それも弱い自分。
デジタルな画面の向こうから、突然、フと風を切るような声が聞こえてきた。
「え?」
「なんか、さっきからお前、謝ってばかりだ。」
大樹はそういってまた少し笑った。
笑ってくれたことが嬉しくて嬉しくて、心が一気に飛び上がる。
「そうかな?そうかもな。ごめんね。あっまたあやまっちゃった。」
クツクツと大樹の笑い声が聞こえる。
それだけで私の心は一気に5年若返って、饒舌になってしまう。
大樹と初めて行ったデートは王道中の王道、映画館だった。
「観たいなー。」
って軽い気持ちで言った言葉を覚えてて誘ってくれた。
映画館で待ち合わせで、やってきた大樹を見て夢じゃなかったんだと感じた。
映画館の座席は思ったより距離が近い。
座るとお互いの熱を感じられる距離。
映画は見たかったけどそれどころじゃないような気もして。
映画にドキドキしてるのか、それとも隣にいる大樹にドキドキしているのか。
相乗効果でストーリーはほとんど覚えていなかった。
上映後、ショッピングモールと一体型の映画館だっかたらモールの中をぶらぶらとした。
結構、人がいて女子トイレに並んでいる時にそれは起きた。
帰ってくるとそこに大樹はいない。
「あ、あれ?」
結構、女子トイレ混んでたからどこか違うお店でも見てんのかな?と思って周りを探す。
それでもいない。
なんか私、変なことしちゃったかな?
怒って帰るような人ではないと思うけど、何かあったのかな?
スマホを見ても着信なし。
うーん、これは困った。
とりあえず連絡してみようと電話をかけてみる。
「はい。」
すぐに大樹は出た。
「今どこ?」
ショッピングモールのざわめきが大樹の言葉を邪魔してくる。
「どこだろう?」
「え?!」
帰って来たのが思わず聞き間違いかと思うぐらい。
「待って、何が見える?」
そう言えば・・・と思い出す。
大学のゼミの集合にも大樹は壊滅的に方向音痴で1人では初めての場所にやってこれなかったことを。
「なんか青い看板の店。」
大樹からの返事にあのショップだとアタリをつける。
「分かった。そこから動かないでね。」
そういって電話を切ると迷子を迎えるお母さんヨロシク、私は小走りに青い看板のお店に向かう。
そこに大樹はいてほっと胸をなでおろした。
「なんで?!」
そういうと大樹はクシュっと顔を縮めて笑った。
「ちょっとだけと思って歩いてたら、どっちから来たか分からなくなった。」
「なんじゃそりゃー!!!」
絶叫して、2人でお腹を抱えて笑った。
「本当にあの時は困ったよ。大樹って方向音痴まだ治ってないの?」
「あれは治るとか治らないとかそういう類のものではない・・・と思う。」
「でも、ショッピングモールではぐれるって面白かったよね、今でも思い出して笑えるよ。」
「そうだな。」
スマホの向こうの大樹も笑ってる。
もちろん私も笑ってる。
何も変わってない優しい大樹。
電話することにビビり、あんなにも悩んでいたのがばからしいとさえ思えるほどあの頃と同じ喋り方。
「ねえ、あの後覚えてる?」
「何を?」
「またはぐれたら困るからって初めて手を繋いでくれたよね。」
ショッピングモールで手を初めて繋いだ。
自分の手を見るとそこから大樹の手が繋がっていて、本当に手を繋いでるんだと思った。
さらわれるように手を取られたから驚いて大樹の少し斜め前にいる顔を見たら耳まで真っ赤になってた。
それを見て私だけじゃなかったと安心して少し笑ってしまった。
私の笑い声に気付いた大樹は振り返って少し怒ったような、困ったような顔をした。
「ごめんごめん、嬉しくて。」
そう告げると大樹はまた笑う。
「ねえあの時は?」
そう告げようとして大樹の声が被る。
「そう言えば今日はどうした?」
飲みこんだ言葉と一緒に思い出も引っ込む。
言われてみればそうだ。
深夜に5年も前に別れた元カノから突然の電話。
それに出てくれただけでも奇跡なのに、突然始まる昔話の数々。
どうした?って誰でも聞きたくなるものだよ。
「あ、うん。いやその。」
特に用があったわけではない。
ただ、大樹の声が聞きたかっただけ。
そんなことを言ったら、大樹はまた困ったように笑うのだろうか。
「ああ、そうか。」
いつも大樹には驚かされる。
「今日、お前の誕生日だったな。おめでとう。」
自分で自分の息を呑む音が聞こえた。
一生閉じ込めておきたい言葉ってこういうのを言うんだ。
この瞬間の大樹の言葉を私はどうしても手放したくない。
「そうなんだよ、ありがとう。よく覚えてたね。」
何とか返せた言葉。
でも大樹、知ってる?
私って大樹からの一言で泣いてしまえるような女なんだよ。
「なんで泣いてる?」
気遣うような困惑したような声が聞こえてきた。
ごまかし切れなかったかという思いと気付いてくれたという嬉しさが同時に駆け巡る。
「いや、別れたのも誕生日だったなと思って。」
そしてこれは私の余計なひと言。
大学2年生の時に付き合って就職1年目の誕生日で別れた。
大樹と私の恋はとても幼く、言葉にしなくても分かるってお互いに甘えていた。
大切なことは伝えなくちゃ何も伝わらないのに。
大樹といる時間はキラキラと今でも光り輝いて見える。
でも後悔もたくさんある。
言わなきゃよかった言葉、やらなきゃよかった行動。
少し時間を開ければ気付くけど、ポイント0にいた当時の2人には気付けるはずもない。
就職して時間がすれ違って別れるっていうのは良く聞く恋愛話で、私と大樹も例外じゃなかった。
6月21日。
私の誕生日。
その日は雨が降っていた。
梅雨入りしてしばらく経っていたから雨は珍しくない。
お互いに就職して忙しいから、私の誕生日は私の部屋で会おうって約束した。
何時になってもいいように外で会うのは辞めた。
大樹が私の誕生日に会いやすいようにしてあげたと思ってた。
約束の時間は19時。
直前にやってきた大樹からの連絡。
スマホには
『遅れそう。』
とだけ書かれてた。
就職してからこんなことは何回もあった。
その度に私の心はざわめき、いらだち、ぺっちゃんこになっていく。
大樹が私の部屋にやってきたのは日付を越えてからだった。
「ごめん。」
謝った大樹に余計に腹が立って、私は言わなくてもいい言葉を投げつける。
「いいよ、もう私の誕生日終わったし。」
「今度の休みに時間作るから。」
子どもみたいなわがままを言っているのは分かってる。
「いいよ、もう。」
雨粒が窓をたたく音が聞こえる。
その音はまるで私の心の中に黒い染みを作っていくようにジワジワと広がっていく。
大樹を1人で待っている間、その染みは確実に私の心を蝕んでいた。
「だって私たち、そもそも付き合ってないじゃん。こんな恋人同士みたいなこともう無理してすることないんだよ。」
大人の恋愛って何も言わなくても始まる、そういうもんでしょ?
そうタカを括っていた大学2年生の頃の私。
過去の私に大きなしっぺ返しを食らう。
そう、付き合おうなんて一度も言われてない。
だけど始まってた、私と大樹の時間。
だからこんな酷い言葉を投げつけても大樹は否定してくれると思ってた。
もう一度、自分が遅れたことを謝ってくれると期待してた。
「そうだな。」
雨音と一緒に聞こえてきたのは本当に大樹の声?
目の前にいる大好きな人は私の嘘を否定しなかった。
それは大樹にとって嘘?真実?
もうそれさえも今の私には分からない。
「じゃあ、帰るわ。」
大樹はそれだけいって私の部屋から出て行った。
それっきり。
「そうだな。」
電話越しの大樹は5年前と同じ言葉を私に告げた。
「嫌なこと思い出させてごめん。」
大樹からの次の言葉が怖くて先制攻撃を仕掛ける。
いつもそう。
私は大事なところで焦って先回りして、余計な一言を告げる。
本当は大切にされたいのに。
本当は優しくされたいのに。
大切にされたり、優しくされたりすることに慣れていないんだ。
いつか『私』という人間の矮小さに気付かれて離れていってしまうかもしれない。
そう思って甘えることもできない。
「あの時のことは、別に嫌なことって思ってない。」
姿の見えない元カレははっきりと告げた。
「え?」
聞き間違いかと思わず口を付いて出てくる戸惑い。
「俺は葵と一緒にいた時間は楽しかったし、別れた日のことも時々思い出す。」
話ベタのくせに大樹は次々と言葉を紡ぎだす。
「一緒に行った場所、交わした言葉。全部大事なものだよ。」
「それは・・・。」
もちろん私もそうなんだけど。
「別れた原因を作ったのはきっと俺だから、あんな風になってしまったけど。それでも葵と別れたいと思ったことはないよ。」
それは今でも?と聞ける勇気を私にください。
「なあ、今度、会えないか?どこかで。」
会えばきっと揺らいでしまう。
仕舞いこんでいるその感情が溢れだして、ワーワーと子どものように泣いてしまう。
23歳の誕生日に別れを告げた元カレは5年経ってもあの頃のままで、優しくそして真摯に私に向き合ってくれた。
話し方も笑い方も何もかも変わっていない。
5年間はっきりと時は過ぎているのに、『変わってない』という安堵をくれた。
私は一度大きく深呼吸をした。
肺の中に湿気を含んだ空気が流れ込んでくる。
窓の外を見れば、あの日のように雨が降っていた。
「それは無理だよ。」
自分の口からでたはずの言葉なのに、まるで他人がいった音のように聞こえた。
「会ってどうするの?もう一回付き合うとか?」
私の耳にはジーという電子音しか聞こえない。
『会おう』と大樹はどんな気持ちで言ってくれたのか。
「こんな日に電話して勘違いさせちゃった?ごめんごめん。」
「だったら・・・。」
「え?」
「だったら、電話してきた用件はなんだったんだ?」
「そんなの・・・。」
そんなの言えるわけない。
「え?!ちょっと何、勝手に決めてんの?」
突然の言葉に私は大きく目を見開いた。
「葵、あなたもう27歳でしょ?お付き合いしている人もいないみたいだし。」
「だからってお母さん、急過ぎない?!」
久しぶりに実家に帰ったら、お母さんが私の前にお見合い写真を出してきた。
近所の人からの紹介で断り切れなかったのだという。
更に驚くべきことは、本人の意思そっちのけで段取りを進めているということ。
「確かに葵には申し訳ないなあと思ったんだけど、お相手を見てみるととっても良さそうだったから、ついね。」
『つい』で娘の結婚相手を決めるなよとも言いたくなる。
結局、断る理由もみつからなくて私はお見合いを受けることになる。
「葵さんが相手で良かった。」
お見合いに来てくれた相手、隼人(はやと)さんは爽やかで誠実な人だった。
私より5歳年上で心地よくリードもしてくれた。
こんなチャンス逃したらもったいないよ!と誰からも言われた。
実際、私もそう思った。
文句のつけようのない相手。
だから正式に結婚の申し出をされた時も断ることもなかった。
なのに。
それは突然目の前に広がった光景だった。
5年前に別れた元カレの姿を見つけた。
同じ町に住んでいるんだから会うこともあるにきまってる。
そして隣にはかわいらしい女の子。
大樹を見つめる瞳も、大樹が見つめる瞳も、どちらも優しい色をしていた。
そうか・・・と思ったんだ、あの時。
「た、誕生日だったから!」
大樹へ放り投げるような言葉を紡ぐ。
「誕生日パーティしてたんだけど、呑み過ぎちゃって!そう言えば、大樹どうしてるかなあと思ってさ。」
大樹にはかわいらしい女の子がいる。
「こんな時間に電話してどうかなあと思ったんだけど。なんとなく、なんとなく電話したんだよ。」
あの女の子はきっと私みたいなことは言わない。
素直で、大樹が守ってあげたいと思えるような女の子。
「じゃあ・・・もう切るか?」
ヒュと喉の奥を冷たい何かが落ちていく。
自分から仕掛けて、自分から拒絶して。
なのにまだここで選択肢を与えてくる大樹はズルイと思う卑怯な私。
切らないといけないことは分かってる、でも切りたくない。
「そ・・・そうだね。」
「じゃあ、またな。」
うん、またね、と告げようとした。
だけど。
「切らないで・・・・お願い。」
出てきた言葉は5年ぶりの素直な気持ち。
『また』なんて二度と来ないことが分かってる。
今更なんてこと百も承知。
涙が溢れて止まらない。
この感情を何と呼べばいいのか分からない。
5年前の今日も本当はこう言えば良かったんだ。
『行かないで』って。
深い溜息と共に大樹の声がする。
「一体どうしろっていうんだよ。」
そんなの私が聞きたい。
5年という時間は変わらないでと願うには長すぎて。
私も大樹も動けないでいる。
「ごめん、本当にごめん。でもまだ切らないで。」
「電話で話すより会って話した方が分かるだろ。」
見えない相手に私は大きく首を横に振る。
違う、違うの。
今、この瞬間を途切れさせたくないんだ。
「大樹、会えないでしょ?」
「なんで?」
「彼女、いるんでしょ?」
「いるけど。」
あの日見た女の子は彼女確定。
もしかしたら、もしかしたら、あの時の女の子は「あれは知り合いだよ。」なんて言ってくれることを期待していた。
期待してどうなる?
自分には婚約者がいるのに。
別れてから自分だけを思っていて欲しかった。
思い続けていて欲しかったという優越感だけを得たかったの?
そんなんじゃない。
「彼女いるのに他の女と会ったりしたらダメだよ!」
泣き叫ぶように言葉をぶつける。
彼女がいる元カレに電話した自分のことは棚に上げて。
「そうだな・・・ごめん。」
向こう側にいる大樹は穏やかに私に謝る。
謝ってほしいわけじゃないのに。
謝らせたかった自分もいる。
この相反する感情は何?
自分の中でマグマのようにドロドロとしていて同じ場所をグルグルと巡っている。
吐き出すことも、飲み込むこともできない。
「大樹のこと、大好きだったんだ。」
涙でしゃっくりをつきながら話す言葉。
大樹はきっと聞きとりにくいことだろう。
それでも大樹は「うん・・・うん・・・。」と静かに私の言葉を聞いてくれる。
まるで今降っている雨のようにシトシトと。
「5年前も別れたいなんて思ってなかった。」
私たち2人の間には今もまだあの日の雨が降っている。
「別れたつもりもなかったんだよ。だけど、連絡ができなくて。どうしてもできなくて。」
大樹を深く傷つけた言葉。
付き合ってないなんて微塵も思ってなかったのに、口をついて出た最大の意地悪。
「それで今日・・・?」
「そう。」
もう一度だけ連絡したかった。
大好きだった大樹の声を聞きたかった。
何かを確認したかった。
もし、どこかの物語の主人公のようにタイムリープができるのだとしたら、私は間違いなく5年前の雨の日を選ぶ。
あの時、あの瞬間に、『行かないで』って言えたのなら。
大樹の隣で幸せそうに笑っている女の子は私だったのかもしれない。
「ありがとな、葵。」
私をなだめるように言う大樹はどこまでも優しい人だと思う。
「もう一度、やり直さないか?俺たち。」
私が一番望んでいた言葉を大樹はここで言ってくれる。
この言葉が聞きたかったんだと体の芯が震えた。
「きちんと、するから。」
二股をかけるような器用な人ではないのは知っている。
だから、無理なんだよ。
本当に嬉しい。
本当に飛び上るほど嬉しい。
だけど、もう無理なんだよ。
何と言う自分勝手な女。
自分だけの心の空洞を埋めるためだけに動いて、欲しい言葉を聞くだけ聞いて、勝手に感情をぶつけている。
口を覆う手がフルフルと震える。
私は一度、大きく息を吸い込む。
口を開き、私は大樹をもう一度傷つける。
<END>
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