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ていねいに書く雑文①20220529

わたしはモノカキ。
大喜利や今日のご飯など、有益とは程遠いことを普段はTwitterで発信しています。好きなものは酒。最近脂肪肝気味だと医者に言われました。

noteでももちろん有益な情報なんかではなく、思ったことを発信していきたいと思っています。実家の固定電話の横に置いてあるメモ用紙に、電話しながら謎の図形を描くように。どうでもいいことを言いたい。

このnoteにはひとつだけルールを設けます。それは「ていねいに雑文を書く」ということ。チラシの裏に書くようなどうでもいいことをていねいに書いていきます。これを読む人にとって暇つぶしになれば最上の喜びです。


では本題。
わたしの文章は「誰も傷つけない」と評価されることがあります。これはわたしが誰かから考え方を決めつけられる「~すべき論」に対して、その内容如何に関わらず苛立ちを覚えるから、「誰も傷つけないこと」を意識しているだけです。
例えば「夏休みの宿題を早めにやりなさい。後でしんどくなるから」は真理でしょう。でも、そう言われると一気にやる気を失いませんでしょうか。

要は正論かどうかだけでは人は動かないのではないかと。
わたしの文章で誰も傷つけたくない。その結果良い評価をいただくことも多いですが、結局それって誰にも響いてないんじゃないかと思ったり。

自分が書いた文章にそれなりに自信があっても、自分に対して大した自信はないのです。今までの自分が客観的に良い意味で評価される経験があまりになかったので、斜に構えてしまい、たまにほめられても「う、うん。ありがとうございますっ。」としか言えない。嬉しいけれど実感が持てない。

そもそも自信がないから「~すべき論を言う」なんて発想になりようがないのです。かといって決してネガティブな人間でもない。だから「もっと自信持って!」という話でもないのです。ややこしいでしょう。「自信持って」と言われても、自分にとってはその根拠になるものがないのです。

本当の自信とはきっと客観的評価によって形成されるものなのだと思います。それも定期的に頻繁に行われる評価によって。

結局のところ「何者かになりたい」と思っていて、それが叶わないことに気づいてショックを受けているだけなのかもしれません。自分の文章で誰も救えないから、せめて誰も傷つけないことを選んで自分を納得させているだけなのかも。

そんな風に思ったことも、大体酒飲んでればどうでもよくなります。
別にへこんでいないし元気です。ではまた。


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