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地味でスゴイ銀閣寺

銀閣寺は、修学旅行生にも、行ってみたい場所の1つとなります。

金閣寺と銀閣寺は、どうせなら、両方巡りたくなりますよね。

でも、金閣寺に比べて、銀閣寺はちょっと地味。

今回は、そんな地味な銀閣寺の凄いところを紹介したいと思います。


バス停から哲学の道

銀閣寺に行くには、バスを使うことになります。

結構遠くて、京都駅からだとバス1本で40分ほどかかります。

京阪を使うのなら、終点の出町柳駅から10分ほどとなります。

降りるバス停は、「銀閣寺道」か「銀閣寺前」。

これは、どの路線のバスを使っているかにより変わります。

特に、「銀閣寺道」のバス停は、白川通と今出川通の交差点の四つ角にあるので、降りてからどちらに向かうのか、注意が必要です。


目印は、今出川通沿いに白川疎水が流れていますので、川を左手に見ながらまっすぐ進むと、哲学の道の入り口に出ます。

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分かりやすく看板があるのです。

哲学の道は、ここから、疎水沿いに、若王子神社まで続く、約1.5kmの道です。

春になると延々と続く桜並木が、この世のものとは思えないほどの美しい通りとなります。

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この姿が延々と続くのですが、桜のシーズンは、3月末から4月上旬の1週間から10日程。

その年の気候にもよるので、タイミングを合わせていくのが、結構難しいですよね。

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桜の季節でない時は、このような感じですが、緑豊かな気持ちの良いところですし、桜以外のシーズンは、案外空いているのが良いところです。


また、哲学の道が出来たのは、案外新しくて、明治時代。

(というと、「全然新しくないやん」って、突っ込みを入れられますが。。。)

琵琶湖疏水が出来た時に、管理のために作られた道となります。

近くに京大があり、そちらの哲学者、西田幾太郎先生等が好んで散策して思索をめぐらしたというところから、「哲学の道」と呼ばれるようになったとのこと。


また、桜並木は、この近くに住んでいた、日本画家の橋本関雪先生とその奥様が寄贈したものがはじまりとなっています。

哲学の道沿いには、今でも「橋本関雪記念館」が建っています。


そんな通りをまっすぐ進み、哲学の道が右に曲がるところにある橋を渡ると、銀閣寺の参道が始まります。


銀閣寺参道から銀閣寺へ

銀閣寺の参道は、そんなに長くなくて、観光客もやや少ない目なので、清水寺や伏見稲荷に比べても、少し落ち着いた雰囲気となり、散策しやすくなります。

飲食するなら、この辺りの方がおススメかな、なんて思います。


参道を抜けると、いよいよ銀閣寺にたどり着きます。


銀閣寺は、正確には東山慈照寺という名前になります。

銀閣寺と呼ばれるのは、金閣寺が先にあって、それに対して、江戸時代に呼ばれるようになったとか。

金閣寺は本当に金色ですが、銀閣寺は一度も銀色に塗られたことはないそうです。


銀閣寺を作ったのは、足利義政で、室町幕府の八代将軍です。

この辺りの時代背景が分からない人も多いのですが、応仁の乱のきっかけを作ってしまう将軍でもあります。

若くして将軍になった義政は、日野富子を妻に迎えます。

政治に興味のなかった義政は、日々遊んで暮らし、男の子の生まれなかったため、早くに跡継ぎを弟の義視(よしみ)に決めます。

ところがその後、富子が義尚(よしひさ)を生んだため、二人の間に対立が起こり、義視には細川家、義尚には山名家がそれぞれついて、とうとう応仁の乱に発展、11年もの間戦が続き、京都は焼け野原に。

その後戦国時代を迎えることになるのです。


その間、義政は、政治も戦いにも関わらず、東山の別荘に引きこもり、茶の湯や能、水墨画等の文化を極めて、その後の日本文化に大きな影響を与える、東山文化と呼ばれるようになります。

その時に作られたのが、銀閣寺なのです。


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銀閣寺に入ると一番に目に入るのは、この、観音堂銀閣です。

写真は雨の日に撮ったもので、もやっとしていますが、落ち着いた建物になります。


そして、そこから左に目を向けると、銀沙灘(ぎんしゃだん)と向月台(こうげつだい)と呼ばれる、不思議な庭が現れます。

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銀沙灘は月の光を映すため、向月台は月を見るためと言われてはいますが、こちらが作られたのは恐らく江戸時代で、だれが何のために作ったのか、正確なことはお寺でも分からないとのこと。不思議としか言いようがありません。


銀沙灘を見ながら、方丈、東求堂の横を抜けて、庭の方へ出て行きます。

銀閣寺は特別公開時以外は、残念ながら建物の中に入ることが出来なくなっています。


庭を道なりに歩いていくと、洗月泉という小さな滝と泉に出ます。

ここから庭の池に水が引かれているのですが、皆さんこの泉にお賽銭を投げられているのですが。。。色々調べても、こちらのお賽銭には何か御利益があるわけではなさそうですwww


ここから山道があり、展望所に上がることが出来ます。

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京都市内一望と言いたいところですが、吉田山が邪魔をして、見えないことになっています。

もしかすると、戦いを嫌った義政が敢えて市内や御所が見えない場所に、別荘を建てたのかもしれません。


展望所を降りると、後は、ぐるっと回って、出口へ向かいます。

出口には、小さなお土産屋さんもあり、こちらもそんなに混雑していないので、お買い物がしやすくなっています。


その後、参道、哲学の道を戻っていくことになります。


因みに、この辺り、大文字山も近くて、いつでも大の字を見ることが出来ます。

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写真は銀閣寺道のバス停から撮影したものとなります。

こちらの山の大の字が、1年に1度、8月16日に五山の送り火として、夜空に大の字のかがり火を燃え上がらせます。


この大文字の送り火のはじまりも、銀閣寺を作った義政だとか。

応仁の乱のきっかけになった、息子の義尚は、実は、義政よりも早くにこの世を去ります。

義政は悲しみ、その新盆を迎えるときに菩提を弔うために、如意ヶ岳の山面に大の文字のかがり火を燃やしたとのが、現代にも続いているとのことなのです。


この銀閣寺は、現代にも伝わる多くのものを残しているのです。


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