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27.恐るべきダンスミュージック──アイリッシュ・ダンスチューンの真髄

 2020年5月、Irish PUB fieldは休業を余儀なくされていましたが、そんな折り、2000年のパブ創業以来の様々な資料に触れる機会がありました。そこで、2001~11年ごろにfield オーナー洲崎一彦が、ライターのおおしまゆたか氏と共に編集発行していた月刊メールマガジン、「クラン・コラCran Coille:アイルランド音楽の森」に寄稿していた記事を発掘しました。

 そして、このほぼ10年分に渡る記事より私が特に面白いと思ったものを選抜し、紹介して行くシリーズをこのnote上で始めることにしました。特に若い世代の皆様には意外な事実が満載でお楽しみいただけることと思います。

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 今回はアンサンブル練習会が始まって一ヶ月後、パット・オコナー氏(Pat O'Connor)とオウイン・オサリヴァン氏(Eoghan O'Sullivan)によるミニライブを観た洲崎の記事をご紹介します──。(Irish PUB field 店長 佐藤)

↓前回の記事は、こちら↓

パット&オウイン のミニライブ (2006年4月)

 さて、今回は、アンサンブル練習会報告の続きを予告していましたが、久々に興奮を覚えたライブに接する機会があったので、こっちを割り込ませることにします。  

 でも、はじめに、何故、興奮を覚えたのかを少し書きます。  

 ライブのレビューと言えば、だいたい音を言葉で現さなくてはならない事自体しんどいもんです。伝えたい。でも、これじゃ伝わらない。というもどかしさにいつも身悶えしなければいけないわけですが、観察点を何か具体的なポイントに絞ることで、少しは伝えたいことがよりはっきりと伝わるのではないかという期待を持ってしまいます。  

 そして、このライブが、上記の練習会ででも、また、昨年からのこの場所での私自身の駄 文中ででも繰り返し吠え続けて来た「ビート」の問題を浮き彫りにする側面を持っていたこと。これがまずは、私にとって充分に興奮に値する。同時に、この部分にポイントを絞って観察する。観察したい。いや、ひたすら観察してしまった。というわけです。 

 パット・オコナー(Pat O'Connor)はクレア州エニス出身のフィドル奏者。現在はクレア州の中でも最も音楽が盛んな地域のひとつであるフィークルに居を構え、この地域を代表するフィドル奏者のひとりである。演奏活動のかたわら、フィドルレッスン、フィドルの修理、製作も手がけている。「The Green Mountain」「The Humours of Derrybeha」の二枚のソロアルバムを発表している。  

 オウイン・オサリヴァン(Eoghan O'Sullivan)はコーク州ミッチェルズタウン出身のアコーディオン、フルート奏者。現在はアイルランド各地の音楽フェスティバルでさまざまな楽器を対象にしたレッスンやワークショップを行っている。フィドル奏者のジェリー・ハリントンと組んだ「Sceal Eile」「The Smokey Chimney」の二枚のアルバムを発表している。  

 恐らく、事前にやる曲やセットなんて決めてないんやろうな。ぼそぼそっと2~3言打ち合わせして、唐突にどちらかが演奏し始めたと思うと片方がすっと追いついてBメロが終わる頃には二人の「ビート」はもうウネっている。  

 正確にはふたりは個々には違う「ビート」感を持っているのだと思う。それは、足踏みの、靴が床をヒットする雰囲気がまるで違うことから推測できる。  前半はパットは両足で軽やかに床を踏んでいたが、オウインは右足を股関節から大きく脚全体を上に持ち上げてどすんどすんと踏み降ろしていた。オウインの踏み方は靴が床に音を立ててヒットするが、実はその脚全体を股関節から持ち上げる時が一番身体に力が入るはずだ。つまり、足音は表拍で出ているか、本人が力を入れなくてはいけないのは裏拍になるのだ。この時のパットは両足踏みをしているのだが、ちょうど左足がこの裏拍になる。しかし、安定してくると、この左足の動きがぴたりと止まる。足踏みは右足で軽く床をヒットするようになり、腰から上が微妙に動き出す。  

 つまり、お互い微妙に違う「ビート」の感じ方をしながら、たぶん、裏拍の位置さえ見定めれば後は自由自在というわけなのだろう。少し離れては寄り添い、少し離れては寄り添う繰り返しの中で互いの「ビート」感は「絡み合う」という状態になり、元々は微妙に違う二種類の「ビート」が束のようになってムチのようにしなるのだ。気が付くと、表拍は常に前に前に押し出され、恐らくここでテンポが少し走るのだろうが、いわゆる、「走る」ほどには加速しない。これが「プッシュ」だ。一拍目のポイントが微妙に早いだけなのだが、これが、いわゆる、フィドルとアコーディオンという比較的アタックの弱い楽器2台だけで成立していることが魔法のようなのだ(ジャズコンボでは、このプッシュが、ライドシンバルのレガートとベースランニングの経過音の横滑り感によって演出される。言うまでもなくライドシンバルもベースのピチカートもアタックが非常に強い)。

 しかし、その秘密は、前述の曲の出だしの方法に現れていたのだ。彼らが意識しているのはあくまで裏拍つまり二拍四拍なのだった。四拍目のバウンズが一拍目の飛び込み位置を決定しているのだ。ここのバウンズ感さえシンクロすれば、一拍目の位置がどれほど微妙にプッシュしても同時に飛び込める。この、プッシュが強くなればなるほど、ウネりの周期は短くなって、聴いている身になれば腰から上をぐるんぐるんと揺さぶられる感じになる・・・・。あたかも空気がそのように動いてこちらの身体を揺らせるかのように。  これをどのように表現したら良いものか・・・。

 例えば、棒の先に長めの革ひもがつながっているムチを振り下ろして何かを打つとしよう。ムチを持つ腕を振り下ろす運動が革ひもを波立たせて革ひもの先端が対象をヒットするのに少しの時間差が出る。いわゆる「ピシッ パーンッ  ピシッ パーンッ」となる。この繰り返しムリ打ちの周期を早くするとどうなるか。革ひもの先端が対象をヒットするかしないかの間に次のヒットの為にすぐに腕を振り下ろさなければならない。これが、ウネりの周期が短くなるという雰囲気である。 

 これは、紛れもなく横ノリと呼べるものであり、明らかなグルーヴだ。ヒップホップの連中がこの演奏を聴いたらきっとこう言うだろう。 「ドラムとベースとDJとラッパーとダンサーがやっていることを、たったの二人でやってしまっている!」  

 アイリッシュ・ダンスチューンはやはり恐るべきダンスミュージックだったのだ!    

 時折、聞き慣れたチューンが出て来る。でも、メロディーの印象がぜんぜん違ったものに聴こえる。彼らの演奏では馴染みのあるメロディの流れが時には分断され、時には次のフレーズと同化してしまう。それほどまでに、「ビート」が最優先されているのだ。  でも、それは、あくまで私たちの感覚の下にあるメロディの流れである。この流れはいとも簡単に破壊されるが、彼らの感じる心地よいメロディはフレーズの流れ方などではないのだ。彼らには自分たちの「ビート」感に完全支配されるメロディの流れが心地良いのに決まってる。  

 だから、彼らは、恐らく「ビート」などという概念自体も意識していないと思う。その躍動こそが、クレアの、コークの、その土地の生活に根ざす躍動感なのだろうと思う。足踏みや身体の動かせ方がまるで違う二人が、彼らが互いに心地よいと思う音を出している。本人達はそれだけのことをしているだけねのだ。しかし、それが、上記のようなメカニズムに沿ったポイントを巧みに押さえ、希に見る音楽を作り出している。しかし、この分析は、あくまで、異邦人である私の個人的なとらえ方である。

 何せ、パットさんというのは、何年か前に、fieldでワークショップをした時、 「パットさんは、自分の弾く楽器の音に合わせて足踏みをしていますか? あるいは、自分の足踏みに合わせて楽器を弾いているのですか?」 との、私の質問に、しばらく考えてから、 「同時だ」 と言ってのけた、まさにその人である。これが、どれ程の境地であるか!  

 そして、このライブで非常に面白いと思ったのは、観客の反応がキレイに賛否両論だった事だ。とあるベテラン氏はマニアックだが下手だと言い、とある常連氏はMCも何も無くて退屈だと言う。  反して、大阪から来てくれたある人は終電の都合で途中退出を余儀なくされ、ああ最後まで聴きたい!こんな演奏滅多に聴けない!と嘆き、とあるアイルランド人はこれはアイルランドの田舎で聴く音楽のそのままだ!と大感激する。  

 ここ、京阪神のアイルランド音楽愛好者たちの価値観がはっきり二種類に分かれているかのようだ。そう言えば、前に、ドーナルラニーがセッションにやって来た時、ドーナルの演奏に接して大感激する人と、ドーナルって案外上手くないねとつぶやく若者がいたことを思い出した。  

 私? このもの凄い揺さぶりを体験した後では、fieldのセッションなど縦ノリのパンクにしか思えない。言い切れます。

<洲崎一彦:Irish pub field のおやじ・最近自覚しました。アイリッシュパブの経営者としてはワタシ失格です。自らセッションに参加して営業妨害をしています。○○さんの言うとおりです。> 

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