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29.音楽欲望

 2020年5月、Irish PUB fieldは休業を余儀なくされていましたが、そんな折り、2000年のパブ創業以来の様々な資料に触れる機会がありました。そこで、2001~11年ごろにfield オーナー洲崎一彦が、ライターのおおしまゆたか氏と共に編集発行していた月刊メールマガジン、「クラン・コラCran Coille:アイルランド音楽の森」に寄稿していた記事を発掘しました。

 そして、このほぼ10年分に渡る記事より私が特に面白いと思ったものを選抜し、紹介して行くシリーズをこのnote上で始めることにしました。特に若い世代の皆様には意外な事実が満載でお楽しみいただけることと思います。

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 今回も2006年にスタートした「アンサンブル練習会」に関連した記事です──。(Irish PUB field 店長 佐藤)

↓前回の記事は、こちら↓

field どたばたセッションの現場から 〜音楽欲望〜  (2006年6月の記事)

 うーん。少し悩んでます。きっかけは、例の練習会です。  

 なかなか、分かって欲しいことが伝わらないのです。あ、それそれ! と、思っても、次の段階に行くと完全に勘違いして理解されていることが判る。もちろん、こっちの説明の仕方が良くないのだとは思う。もっと、スカッと説明する方法があるのかもしれない。 

 ここで、一抹の不安がよぎる。このクランコラ誌上で、月1回程の頻度で文章を書く、というこの表現で、どれくらいの読者に、私が以前からしつこく問題提議している「ビート」の問題が、どの程度、どのように伝わっているのだろうか。単なる言葉遊び程に受け止められている確率の方が高いのではないだろうかという不安。  

 ようするに、何も伝わっていないという不安です。  

 では、私の問題提議そのものが不適当なものなのか。あるいは、「ビート」を楽しむ音楽姿勢そのものが余りにマニアックなものなのか。そのあたりも一度疑ってみなければいけないのかもしれないと思ったりもする。  

 例えば、何か「良い演奏」とされるライブを観たとする。10人の人間が「良い」と思ったとする。では、その10人は「どのような点」を良いと思ったのか。これが、しばしば、10人が10人ともにバラバラだったりするだろう。個人が個人の嗜好で「良い」と思う点が違っても、それは当たり前だし、これが揃わなければウソだと言っているわけではない。私が言うのは、それぞれ目の付け所が違っても、「良い」と思わせたものは何なのか、という事だ。音楽的に難しい分析などしなくても、ある程度の音楽条件が整っていれば、音楽は音楽としてダイレクトに聴く者に何らかのインパクトを与える。それは理屈ではない。  

 その上で、「どこが良かった?」とたずねられれば、皆それぞれに、意識化できる、あるいは言語化できるものに転嫁してそれを語るだろう。

「カッコ良かった」

「楽しそうだった」

「すごく早く指が動くのに驚いた」

「弾いている時の表情がよかった」

「あんな風に自由自在に楽器が弾けるのに感動した」

「美しい音色に酔ってしまった」 ・・・等々。  

 私は、それらの各人の各々に意識化されたものを一蹴して、「全部ちがう! 要はこれだ!」と叫んでいるに過ぎないのだろうか。  

 音楽の楽しみ方は、それぞれ、個人個人の自由なんじゃないか。という意見には私もしばしば心が揺らぐ。全くそのとおりだ。それはどこまで行っても自由です。

 ただ、音楽の楽しみ方には、「純粋な楽しみ」に付随する色々な「欲望」が付きまとう。この「欲望」はしばしば「当然」と解釈されるのかもしれないが、私の考え方では、これら全部が「音楽」の邪魔をしているようにしか見えない。  

 曰く 「もっと上手くなりたい」

あるいは、 「あの人のように、上手くなりたい」

さらには 「あの人よりも、上手くなりたい」  

 このあたりで止まれば、それは一種の「向上欲」と解釈もできる。しかし、この話は「楽しみ」の問題である。音楽は感じるもので、「気持ち良いか、良くないか」という価値尺度であるべきだ。知識や技術の習得を云々する問題ではない。つまり、「向上欲」からは何も生まれないのだ。むしろ、「楽しむ欲望」が必要とされるのだ。過度な「向上欲」はしばしば「楽しむ欲望」を抑圧するのではないか。

 次に頭をもたげる「欲望」は、

「人を感動させたい」の類。

 このあたりから、話はもはや怪しくなって来る。  

 よーく考えてみて欲しい。他者の心の問題をどうにかしようと欲しているのである。これほど不遜な考えがあるだろうか! ヒステリックな社会派風に言えば、この考え方は 「基本的人権の侵害に通じる!」  

 「人が感動する」のは、あくまで、作為の無い結果論であり、自分の音楽行為の「副産物」でしかあり得ないはずだ。

 ひとつの落とし穴は「求められる」という状況である。「求められる」ことに応じるのは不遜でも何でもない。しかし、ここに発生する需要と供給の関係は普通に考える「商品」のように純粋経済上の関係でない限り複雑を極める。

 例えは悪いが、「強姦か和姦か」ほどの微妙さを内包する。さらに言うと、これに関わる人々は構造的には「強姦」であるものを、需要側供給側の暗黙の空気でもって無理矢理「和姦」であると信じ込もうとしているというバイアスが存在すると感じるのは私だけだろうか。確かに、これは、「何か」を楽しもうとする姿勢とルールではある。が、これは音楽の「純粋な楽しみ」とはほど遠いゲームではなかろうか。  

 そういう意味では、 「お金を稼ぎたい」  

 という所に来る方が、どれほどか健全である。自分の音楽価値を「お金」という社会価値に変換して認識しようとしているのだから、すこぶる冷静だと言える。  

 しかし、少しでも「お金」に変換してしまった果てに 「お金を稼がなければならない」  

 という場所に行き着いてしまう場合があるだろう。日本の大多数のプロミュージシャンがこの場所にいるのだと思う。  

 ここで、当初の「楽しむ欲望」が保てる人が果たして何人いるのだろうか。(そういう人が実際にいるとすれば、それはそうとう心の強い人間か、そうとう無神経な人間であろうと想像できるのだが・・・・)  

 ううんと、何を言いたかったのか~。今回はまったくまとまらないぞ。・・・・ごめんなさい。  

 つまり、音楽を「楽しむ欲望」を持って、素の気持ちで、私の話に耳を傾けてほしいのです。これは、他者の(皆さんの)心の問題をどうにかしようと欲しているのでは決してありません。共感を欲しているのです。共感できる人達と共に音楽を聴き、音楽を演奏することで、私の音楽を「楽しむ欲望」は果てしなく増幅して行くのですから。  

<洲崎一彦:Irish pub field のおやじ・何故、自分は音楽が好きなのか?音楽を演奏したいのか?今、ちょっとした転機を迎えているのかもしれない。>

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