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スペイン、道の途中⓵

 僕は今スペイン北部の小さな村でこれを書いている。というのもカミーノ・デ・サンティアゴという32日間かけてスペイン北部を横断する巡礼の最中だからだ。これから週ごとの旅の記録をここに残しておくことにする。
 この巡礼のことについては高校時代から耳にしていた。知人がこの道を歩いた経験があり、また「とても素晴らしいものだった」と聞かされていた。その知人はオランダに住んでおり、昨年の冬に訪れたときに再度この話題になった。僕は今フランスに住んでいて、「行こう」と思えばいつでも行ける状態であったし、惹かれてもいたので、成り行きに任せて歩いてみることにした。また10代の最後に何かやっておきたかったというのある、通過儀礼的な。

Day 0 (5/4) : 国境へ迎え!


Saint-Jean-Pied-de-Port

 ノルマンディーを出て、フランスの最南端にある村、サン・ジャン・ピエ・ド・ポー(以下:サン・ジャン)に向かった。これから僕が歩くのは最もポピュラーな『フランス人の道』で、この村から聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラ(スペイン北西)までの800kmだ。パリからスペイン方面へのバス乗り場には僕と同じ巡礼者らしき人々がちらほらと腰を下ろしていた。サン・ジャンはとても素敵な村だった。南仏は初めて来たのだが、「これぞフランスの美しい田舎景色だ!」という感じだった。何も伝わなそうな説明で申し訳ない。ここでは巡礼者登録を済ませ、1日目に備える。田舎だからなのか僕がフランス語を話すアジア人だと分かると現地の人たちはとても驚いていたように見えた。「横で寝ているこの人とも道中で何回か顔を合わせることになるのだろうか」、そんなことを思いながら眠りについた。初めて泊まるアルベゲ(巡礼宿)の中で僕の心はもう歩き出そうとしていた。

Day 1 (5/5) : 長すぎる一日


40km / 11h /Saint-Jean-Pied-de-Port → Espinal

 朝5時。外はまだまだ暗いが、皆が動き始める。1日目はピレネー山脈を越える。フランスとスペインに跨る大きな山脈で、マクロン大統領の別荘もあるらしい。高低差1200m、そしてこの巡礼路最初にして最大の難関だ。これは優しさなのか、篩い落としなのか。登山など経験もしたことがない19歳は意気揚々と出発した。まだまだ暗い道の中、巡礼者を導く印に沿って進んでいく。おそらく他人より荷物は重いのだが、この時はまだ何も気にしてなどいない。緩やかな坂道、この時は「せっかく20代になる前に歩いているのだからぜひ10代を振り返ろう」と、中学時代のことについて考えていた。
 13歳〜15歳のその時期は心の中がいつも大荒れで、関わる人全てを傷つけてきたのではないかと思う。自分の中には絶対的な何かがあって、それを振り翳し、当然何も上手くはいかず、拗ねた。最後の点に関しては今も変わっていない僕の得意分野だが、それにしてもだった。でもそれは反対に僕の中の確かな純粋さのようなものでもあり、剥き出しに自分自身だけを頼りにして前に進もうと必死だった。そんなことを考えていると、ある同級生の顔が頭に浮かんだ。特に仲が良かったわけでもなく、微妙な距離感の男の子。彼は今、歌舞伎町で働いているらしい。「自分が働いているところもそれほど遠くはなかったな」なんて思っていると、彼が頭の中で「達筆だね」と言った。僕がまだ小学生の頃、彼が僕にかけた言葉と記憶している。なんで唐突にそんなことを思い出したのかは分からないが、たしかに記憶として。僕の人生は、きっとそういうものありきで生きている。そう思った。
 何分か経つと坂が急になってきた。以前景色はいいが、自分自身の息の音が大きくなる。この時にはもう既に歩き始めたことを後悔していた。とんだ根性なしだ。どれほど歩いたら山を越えられるのかなど、経験のない僕には見当もつかないが、何回も立ち止まりながら登っていく。パンを齧り、水を飲み、どんどんと。フランス人、アメリカ人、韓国人、様々な人と話しながらどんどんと。既に5時間は経過しているだろうか、肩が痛い。向かい風が絶え間なく僕に吹きつけ、前に進めない上、体温を奪っていく。どうやら完全に山登りというものを舐めていたらしい。雲で日が隠れると「もうどうにでもなれ」とさえ思った。そんな時に話しかけてくれたのがフランス人の男性だった。隣で歩調を合わせながら僕の方を何度も確認してくれていた。彼がいなければ途中で断念していたかもしれないし、もしくは、、、。数日前に見たアニメの中の街中で人が凍死するシーンが脳内に流れていた。小さな山小屋、彼の淹れてくれたコーヒー、気づけばそこに国境があり、僕たちはスペインへと入り、昼過ぎに山頂へ到着した。
 下りは上りよりも足を酷使するので細心の注意を払うが、気持ち的には楽だった。途中で映画を勉強していたというフランス人のポールに話しかけられたのもあり、時間はあっという間に過ぎていった。「日本文化は詩的だ」とか「是枝が」なんとか言ってとても興味があるような様子だったし、実際とてもいいやつだった。最後には一緒にビールも呑んでしまって「これがカミーノ・デ・サンティアゴか!」と浮かれ気分で別れた。そして悠々と今日のアルベゲへ向かい「予約がないなら無理!」と一蹴される。なぜ、山登りはできて宿の予約なできないのか。「クソっ」、一言呟いてまた歩き始める。ここまで封印していたヘッドフォンをしたが、誰も僕を咎めたりなんてできないだろう。進め、進め。途中でとてつもなく歩くのが早い白人の青年に追い越されたりしながら次の村へ。「もうここもいっぱいだ!」と言われ、「ここもダメか」と、ため息を吐きながら外へ出ると、隣にはさっきの白人青年。どうやら彼も同じ境遇らしいく、僕らはすぐに仲良くなった。名前はマシュー、日本語を話せる父を持つアメリカ人だった。さっきまでフランス語を話していた僕は少し言葉を詰まらせながら会話を繋げる。彼はスペイン語が話せるので、彼といたときは現地人とのコミュニケーションに難はなかった。結局僕らは二つ先の小さな村で宿を取った。「長すぎる一日は身体によくないな」なんて冗談めかして言いながら電気を消した。

Day 2 (5/6) : キリスト教徒のアメリカ人


34km / 8h / Espinal → Pampeluna

 前日よりも遅く起き、朝食をとって僕らは7時前に宿を出た。霧の朝だ。今日僕らはパンプローナへ向かう。夏には有名な牛追い祭りがある大きな街で、本来であれば3日目の目的地だが、1日目に思いがけず多く歩いた僕らは「どうせなら」というマシューの提案もあり目指すことになった。彼は敬虔なクリスチャンで十字架のネックレスと、キリスト教について書かれているという本を持ち歩いていた。歩いている間は宗教や巡礼のことについて話す機会も少なくなく、キリスト教徒に縁もゆかりもない僕にとっては、この時はまだ遠い世界の果てで起こっていることのようだった。キリスト教徒のアメリカ人。もしかしたら彼は世界で僕からかけ離れた存在の一つかもしれないと彼の話を聞き流しながら考えていた。そこから2時間、そうして歩いているうちに山道に入った。夜のうちに降った雨のせいで道はぬかるんでいた上、大きな水溜りばかりで僕らは手こずった。途中で運動靴からサンダルに履き替え休憩を取りながら進んだ。しかしながら、マシューは歩くのが早いのに加え、休憩を取りたがらない(水もまともに飲んでいるのか分からないほどだった)。僕は断るごとに「2分休憩させてくれ」と彼に言い、すると彼は少しの不満を隠しきれていない顔でこちらを見ながら「いいよ」という。とても気持ちのいい、元気な青年であるのは間違いないのだが、元気すぎるというのも難しい。この道中で僕は彼に「先に行け」と10回は言ったと思うが、毎回不満を隠しきれない顔で「一緒に行くよ」と頑なだ。そして日本男児の自分はそんなことを言われては断れるはずもなかった。転び、汚れ、足はもう限界を迎えていたが、目的地に近づくにつれて彼の歩くスピードは上がっていく。僕は彼より足が短く、筋肉もなく、荷物も重い。なぜ自分がこんなことをしているのか分からなくなっていた。
 どんどんと前の人間を追い越していく。日差しが僕を刺す。いくら水を飲んでも気分は良くならない。おそらく熱中症のような状態だったと思うが、目的の宿まで3km というところで完全に力つき、倒れ込んだ。ここでも彼は「一緒に行くぞ」と言う。だが進めないのだ、これ以上は。自分が情けなかった。すると彼は「俺が君の荷物を持つ」と僕の荷物を前に抱えて歩き出した。そんなことをされては止まっているわけにはいかず、自分もまた歩き始めた。道ゆく人が僕らを横目で見ながら通り過ぎていく。僕はとても恥ずかしくなって帽子を深く被り、俯きながらトボトボと情けなく。この2日間、自分の弱さと醜さを自分自身に突きつけられ、そこで毎回他人に面倒を見てもらっている。本当にどうしようもない気持ちになった。宿に着いた後は彼のためにパスタを作り、泥のように眠った。

Day 3 (5/7) : 心と身体


22km / 6h / Pampeluna → Puente La Reina

 マシューはパンプローナに残るらしいが、(いつだって)お金のない僕は居座るほどの宿代はもったいなく感じてしまうので先に進む。しかし、身体は昨日の時点でとっくに限界を迎えているので思うように足が出ない上、すぐに立ち止まってしまう。市外の長い道を抜けると山の向こうには規則正しく風車が列を作っている。「今日はあの向こうまで行く」。そう思うだけで肩や足や色々な所が重く感じた、ただひたすら進む。止まる。また進む。空腹で倒れそうになったところで小さな村に辿り着き、生ハムとチーズ、トマトにバゲットとというシンプルなサンドイッチを手に入れたのだが、これが人生で食べたサンドイッチで一番美味かった。ここでこの黄金の組み合わせを学んだ僕はこの旅の中でこれに何回もお世話になることになる。食事の後は勢いがついたのかスルスルと進み、山頂へ。巡礼路屈指の映えスポットと言うべきか、これまで歩いてきた道が地平線の先のまで伸びていて、その反対にはこれから歩いていく道が。永遠。
 そして、登った後は降らないといけない。嫌いだ。(もう一度言うと)登りの方がキツいように見えるが、身体へのダメージは降りの方が断然大きい。そのダメージを軽減するためにゆっくりあるため、全然進んだ気にならず精神的にもキツい。荷物が重い、足首に変な感覚がある。そんなことしか考えられないまま歩き続け、やっとの思いで降った後は案の定散々だった。足が痛すぎる。今まで感じたことのないほどの痛みだが、解決策は歩き続けて目的地に辿り着くしかない。いままで自分より歩くのが遅かった他の巡礼者にどんどんと離されていくし、いくら僕が歩いても前に見える町も同時に遠ざかっているように感じた。身体の限界はやがて心に影響を与え、するとさらに疲労感が増す。その悪循環を僕は感じていた。この日が身体的にも精神的にも間違いなく最悪の1日だった。それが前日までに感じていた情けなさとも重なり、大きな波となって僕に押し寄せた。「たかが3kmなのに」と何度思ったことだろう。
 とうとう宿に着いて、順番を待ち並んでいると前に居たフランス人の男女が確実に英語が話せているのに、後ろにいた僕にフランス語で話しかけてきた。「アジア人には分からないだろう」とでも思ったのだろう。僕がフランス語で返すと呆気に取られた顔。こちらも疲れていたしイラついたがそれ以上は言葉を交わさなかった。ヨーロッパにいればこのような扱いを受けること、口にはされなくても態度で明らかに毛嫌いされていると感じ取れること、そんなのは日常茶飯事だ。いちいち気にしないようにはしているが、それは少しずつ僕の心に傷をつけていく。正しく試練のような日であった。気づいたら眠っていた。

Day 4 (5/8) : 葡萄と麦にイタリア人


22km / 6h / Puente La Reina  → Estella

 朝5時に目が覚めた。前日の最後の記憶が20時頃だったのでその時間帯に寝落ちしていたようだった。今日も昨日と同じくらいの距離を進むが、僕ら巡礼者が利用するアルベゲは先着順の場所が多く、昨日のことも考慮すると人より時間がかかりそうな僕はなるべく早く出発する必要があった。急いで準備を済ませて5時半過ぎには宿を出た。昨夜は沢山食べて沢山寝たが、この3日間の身体の疲れがそれだけで取れるはずもなく、足を半分引きずりながら暗闇の中を進んでいく。橋を渡ってプエンテ・ラ・レイナを出る、直訳すると『女王の橋』というこの村の名前はこの橋に由来しているらしいが多くのことは語れない。もう少し自分が歩き、滞在する町の歴史について知りたい気持ちも山々だが、歩いた後ではそんな元気などもちろん残っていないのでしょうがない。聞こえるのは小鳥の囀りだけのこの時間、早く出発したので前後に他の巡礼者は見えない。足は重いが気持ちは軽い。1時間程で最初の村に到着した。いいペースだ。自分が生まれた年に建てられたらしい大層な大きさの水道から水筒へ水を汲み、また歩き出す。片手には昨日と同じ組み合わせのサンドイッチだ。
 次の村を目指す間の景色はこの週の中でも屈指のものだった。道の横には葡萄畑と麦畑が広がり、先に見える村は全体が城のような形をしている。まるでRPGの主人公にでもなったかのようだった。こうやって街から街、村から村へと進むことに楽しみを見出してきた旅人と呼ばれる人々は歩いている間にどんなことに思い馳せ、進み続けたのか、そんなことを考えていた。僕はまだ「辛い」としか思っていない。上空には飛行機が尾をひいていた。綺麗だった。
 前日までの影響は大きく、僕の足には巨大なマメができていたため、スタートの時点からサンダルで歩き続けていた。途中で会ったスペイン人のおっさんは僕には分からないというのに、「なんでサンダルで歩いてるんだ?お前は靴を持ってるんだからそれを履けよ」とスペイン語で話しかけてくる。スペイン人は思っているより英語が話せず、スペイン語でゴリ押ししてくる傾向がある。フランス人とは少し違う。フランス人はこちらがフランス語で話せない場合はあまり話さずに呆れ始める傾向にある。その時「どっちも嫌だな」と思ったが、「日本人もさほど変わらないか」と、自分の思考がおかしな方向に向き始めていることに釘を刺した。
 昼過ぎには目的の町に到着した。前日よりは順調だったが、やはり最後の3kmは辛かった。思惑通りアルベゲには1番に到着し、開く時間を待った。次に来たのはイタリア人の訛りが強いの22歳の女の子だった。僕らはお互いについてのなんでもない話なんかをした。彼女はとても感じがよく、僕は「もっと話してたい」という気に駆られたが、そこで彼女の顔見知りである他のイタリア人たちが到着した。彼らは少し僕の苦手な雰囲気を持っていた。僕らはアルベゲが開くまでストレッチなどをしながら待った。14時になるとともにドアを開けた宿の管理人もまたイタリア人だった。ギャング映画の敵にいそうな60歳くらいのおじさんで、最初は身構えたがとてもいい人だった。彼が午後の日差しを求めて外に出るのを見た僕は後を着けて話しかけた。この行動は自分らしくないと思ったし、特に理由もなかった。彼はヨーグルトを食べながら僕の質問に答える、意外とチャーミングな笑顔を持っている人だなと思いながら話を進めていると、急に誕生日の話になった。僕が6月で20歳になるので10代最後の1ヶ月でカミーノに挑戦してると話したからだ。彼が「6月のいつだ?」と尋ねてきたので「7日だ」と答えると、驚いた顔で僕を見てくる。彼も6月7日生まれらしかった。これが僕が人生で初めて同じ誕生日の人間に出会った瞬間だった。この後僕は彼に「あなたの写真を撮らせてくれ」と頼んだが、柔らかに断られた。そしてこの後はパンプローナから44km歩いてきたというマシューも宿にやってきて、彼やイタリア人たちとともにパスタを食べた。いい夜だった。

Day 5 (5/9) : 小さい人間


21km / 5h / Estella  → Los Arcos

 いい夜を過ごした後ほど悲しくなってしまったりする。朝は皆と朝食をとり、7時半過ぎに出発した。イタリア人たちの後ろをついていきながら、「このまま歩き続けたら、足を引きずるこの歩き方が染み付いてしまうだろうか」なんて考えていた。街を出てすぐの所にワインが出る蛇口があった。「一緒にいる誰に言っても伝わらないだろうな」と、愛媛のオレンジジュースが出るやつを思い出していた。当初想定していたより日本人がいない。というかまだ1人も出会っていない。韓国人はめちゃくちゃいる。韓国では日本より圧倒的にキリスト教徒が多いし、以前カミーノについてのドキュメンタリーか何かがすごく流行ったらしいと道中で出会った韓国人に教えてもらった。毎回「韓国人?」と聞かれて「日本人だよ」と返事するのも、歩きながら英語やフランス語を喋るのも身体だけではなく頭も疲れてくる。真っ青な空の中、永遠に続いていそうな坂道を今日も坦々と登っていく。一緒にいるイタリア人たちはずっとしょうもない質問を投げかけてくる(これをしょうもないと思ってしまっていることが僕が疲れている何よりの証拠だ)。1人の男(ラポ)が「君がもしイタリアに来たら、僕の家に泊まっていいよ」。こういう会話がヨーロッパ人の中では結構出る気がするんだけど「それは正直どういうつもりで言っているのですか?」と心の中で毎回聞き返す。多分天気の話をする時みたいに大した意味なんてない。その後、工程の半分を過ぎたあたりから、前日最初に話した22歳のイタリア人の女の子(エリザ)と一緒に歩いた。これから彼らとは何度も宿を共にするが、1週間くらい経つまで彼らの名前を僕は覚えられない。そして僕は毎回それを気に病んでいた。なぜなら彼らは毎回挨拶すると共に名前を呼ぶ。毎回僕は「You」とか「ねえ」とかで誤魔化した。恐らく僕が世界で一番苦手なことの一つが「人の名前を覚える」ということで、これは生きる上で相当な致命傷だ。彼女は歩きながらよく鼻歌を歌っていた。「彼女に一番好きな日本語は何?」と聞かれた時に、日本語以外に存在しないからという理由で「木漏れ日」を選んだ。彼女は面白がってくれたが、僕はそう答えた自分がまた嫌になった。
 宿についてからは彼らとお互いの言語や文化について話した。僕らはイタリア人6人、ハンガリーの女の子1人、そして僕というグループでよく食事などを共にした。彼らがイタリア語を話しているときは僕は理解できないし、同じくイタリア語が分からない彼女は1人のイタリア人の男(アルフィオ)ととても親密そうなので、この辺から少し疎外感を感じはじめていた。とは言っても他に話す人もいなかったので、スーパーやら教会やら彼らの後をついて行った。そして、宿の中ですぐに彼らの姿を探すようになっていた。「これは良くないことだ」と思ったのは、僕が相当な寂しがりやで、こういうときは他人に依存し始めた後で勝手に拗ねたり悲観的になったりするような癖が自分にあることを知っていたからだ。スペインまで来て何を考えているのだろいうと呆れる。胸に少し引っ掛かりを残したまま、明日は1人で歩こうと決め、眠りについた。

Day 6 (5/10) : スペインの熱


28km / 9h / Los Arcos  → Logrono

 宿を出たのは朝日が昇る前だったが、巡礼者の中では遅い方だった。今日は長丁場になる、28km先のログローニョという二つ目の大きい街に行く。宿を出てすぐに辺りが明るくなり始め、とても綺麗な朝焼けを見ることができた。この旅の中でも結構記憶に残っている景色だった。前日まで人と歩いていたからか、心が疲れていたからか、ヘッドフォンをつけて音楽を聴きながら歩く。「カネコアヤノが新しくLive音源をリリースしている!」と楽しんだ。「不便なものが一つくらいある〜」、このやけに重たい荷物の話が笑い話になるのはいつになるだろうか。彼女の曲を聴くと思い出す顔がいくつかあって、その度に嬉しくなったり悲しくなったりするのは人生なのだろうか。朝焼けは確かな日差しに変わり、3分の1も進まずに僕の体は汗を垂れ流しながらベンチに倒れ込んだ。なんでこんなに疲れているんだ。
 そこからの記憶はあまりない。この日はとても暑くて、水を飲むのだけど、それだけでは体液の塩分濃度が薄くなっていって、気分は悪くなる一方だった。「暑い、暑い、死ぬ、日陰はどこだ」。進めないまま時間がすぎる。今回は確実に熱中症。18km地点にも町があり、ここで中断しておけば良かったものを「気合いでどうにかなる」と、キツくなるのは分かっていながら進んだ自分の落ち度だ。この度で一番時間がかかった上、一番休んだであろうこの日の最後の3kmはZARDの『負けないで』を永遠にリピートしてしまうほどの精神状態だった。ピレネーといい勝負できるほどの辛さだ。あと5分歩いていればもう動けなくなっていただろうというところで宿に到着した。
 この度初めての寄付制のアルベゲだ。これからもこういったアルベゲをいつつか利用することになるが、そこでは宿泊者みんなで食事をとり、その後はミサなどに参加するのがお決まりとなっている。この日はスープとパン、サラダにワイン。質素だが疲れた体に染み渡る。皆で巡礼者の歌を歌い、教会で聖書の一文を読む。皆断るごとに「アメーン」と言うのだけどキリスト教徒ではない僕は少し戸惑う。ここでボランティアをやっているイタリア人の男性は「カミーノで人生が変わった」と言っていた、僕を部屋に案内してくれたスペイン人の男性は「ヤポン!アミーゴ!」ととても嬉しそうにコミュニケーションを取ろうとしてくれた。何か僕はそういったものをこの旅の中で見つけられるだろうか。太陽を避けるため「明日は早く出よう」と街をしっかり探索もせず眠りについてしまった。

Day 7 (5/11) : 想う


29km / 7h / Logrono → Najera 

 朝日から逃げるように早足で街を抜ける。昨日の反省を生かして、暑くなる前に出来るだけ進んでおきたい。昨日までの足取りが嘘かのように順調だ。疲れたらすぐに荷物を下ろして3分ほど休んでまた歩き出す、かなりペースが速い、どんどんと他の巡礼者を離していく。朝日が昇り切る前に半分手前くらいまでは進むことができた。素晴らしい。歩いている間はこの1週間で初めて両親のことを考えていた。ヨーロッパにいると「家族と離れて寂しくないの?」と聞かれることが本当に多い。それもそのはず、彼らは週末や断るごとに家族の家に帰り、共に時間を過ごす。とてもいいことだと思う。というか上司と呑みやゴルフに行ったりすることに時間を使っ位る日本人がおかしいのか。「親になるならヨーロッパで」なんて誰かが言っていたっけ。僕は両親と結構仲がいい方だと思う。よく父とドライブするし、母と2人でライブに行ったり、買い物したりもする。もちろん妹や祖母と過ごす時間も大好きだ。それでも高校時代は寮で生活していたこともあり、そこまで悲しいという感情はない。なんなら今はその会えない状況を楽しんでいる。でも時々考える、「両親は何を思って僕を育てて、フランスに送り出しのか」とか。去年少しの間実家で過ごした時に父の部屋にしまってあった若き頃の父のアルバムを勝手に見たことがあった。おそらくその頃の父は今の僕と同じくらいか、それより少し年上くらいで、まだまだその笑顔は若かった。父は真面目だが、丁度よくいい加減なところもあり、僕はそんな父が好きだ。あの写真に写っていた彼も10数年後には父になり、2人の子供を育てる。その1人は19歳でフランスに発ち、成人式のとき実家に帰ってくる。そんなとき彼は何を思うのだろうか。僕はそんな彼に何を伝えるのだろうか。手紙でも書くか、小さな旅にでも誘うのか。
 目的地まで半分を切ったところで、見るからに陽気そうな白人の男がいた。話しかけてきそな彼は案の定、目があうと同時に口を開いた。その男はピーターと言うオランダ人で、驚くことにオランダからスペインまで歩いているらしい。とにかく元気で気がいいやつで、勝手に話し続けてくれるので気を遣わなくてよく楽だった。オランダ語と英語と少しのフランス語とスペイン語を話し、道中のどんな人にでも話しかけるようなやつで、初対面の人間に対しての態度は僕とほぼ反対で、彼と話す人は皆笑っている。そんな彼のお陰できつい道のりもなんとか乗り切ることができた。終わった後は一緒にバーへ行き、夕食をとり、話し続け、すぐに距離は縮まった。彼はただ元気な青年なだけではなく、素晴らしい気遣いもユーモアをある。これは相当いい男だ。この居心地がいいという感覚の通り、彼とはこれからも共に旅を続け、彼を通して実に多様な人たちに出会うことになる。そんなこんなで身体を酷使しすぎた初週が幕を閉じた。

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