なぜそこに打つ?涙の囲碁

2022年1月30日。

今年初めての囲碁は、幸運にもリアルで
させてもらった。

今の世の中はというと、例の感染症でザワザワ。
私が住む街でも、休校、休園、濃厚接触者は
自宅待機、今日は何人の感染者がでて…
と毎日大騒ぎ。


転職して、関わる人数が増えれば増えるほど、
知りたくもない情報が嫌でも
バンバン入ってくる。

1人で仕事をしていた時の方が、よっぽど
楽だったなと、このときばかりは思う。

みんな、どうしようどうしようと大慌て。
過剰に心配していた人たちは、
大体心配していた通りになっている。


そんな中で生活していると、どうしても
周りに引っ張られてしまう自分がいた。
いらぬ情報を耳にしてしまうと
気持ちもブレ始める。

日本人が大好きな「みんな」っていう
フレーズが今はとても耳障りだ。

よく見る料理レシピサイト(〇〇パット)の
キャッチコピーも「みんなが作ってる」
それが最近どうも目について仕方がない。
日本人の心理をついている感じがして
なんだか不快な感じがする。
そう思いながらも、それを基準に
見ている自分も危うい。


そんな中、囲碁の場所に行くまで、
ドキドキだった。
「みんな」に引っ張られた不安な
気持ちを抱えながら向かった。


今回のリアル囲碁を一言でいうと、
私にとってとても大事な回になった。


今回の目標は6子局合格するために
向かったのに、合格どころか、
全く予定外の涙涙の回になった。
それくらい、自分の根深い部分が
でてきてしまった。


それがこの一手(私は黒)↓

画像1


囲碁のルールがわかる方には分かる。
なぜそこに打つ?と誰もが思う場所に、
私は打つ。

打たないと気持ち悪いというか、
安心するというか。

ダメかもしれないけど迷うなら思った
ところに打て。
先に苦しいことを選んでやれば後は楽だ。
みたいな気持ちもあった。

この一手がまるで
「わたしを見て、わたしはわたし
と言っているようだった。

仲間にそう言われて気が付いた。
そしたら涙がいきなり出始めた。


「え~!すごいね!!!」って
昔からよく驚かれたり、褒められた。

私は何もしていないのに。

〇〇さんとこのお孫さん、娘さんだから
すごいとか。
活躍する兄達の妹だからすごいとか。
あの強豪校出身だからすごいとか。

いや、私、なんにもすごくないし。

祖父や親、兄達がすごいだけだし。
所属したチームがすごいだけだし。
私自身は全然活躍してないし。

どの人もみんな口を開けば同じことを言う。
昔から、何度も何度も言われ続けてきた。
もうその反応、飽きました。っていうくらい。

だから、褒められることは苦手だし
信じられない。

褒められたところでちっとも嬉しくとも
なんともない。
ハイハイもういいですよーって思ってしまう。

この人は私個人をちゃんと
見てくれてるのかどうか?

その反応、本当かどうか?って、

そういう目で人を見るようになっていった。

今回の囲碁は、その表れだったように思う。

朝からファーストフード店で涙を流す。
そんなとても濃い時間になった。

いつしか、囲碁で勝つことが目的となり
本当の目的を忘れていた。

私の囲碁の先生である人生さんからは、
「今日僕たちまだ会話一つもしてないから。」
って言われるくらい。私は石をとりたい一心で、
相手のことをひとつも考えずに
自分自分で打ち続けていた。

まず「自分」をださないと。
ここから自由にならないと
周りは見えないよって。

囲碁をやることで気がつくこと。
自分ごとを客観的に見れることが
どれだけ大事なことか。

今回の囲碁で気づかせてもらった。




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