オンライン化と私達の「存在」について(1)

自分は本当に存在しているのだろうか? 

 新型コロナウイルスの蔓延により、会議や授業、飲み会さえもオンライン化が進んでいる。当初は「新しい世界」が始まったかのように感じて歓迎していた人も多かったが、だんだんと疲れを感じる人も増えている。その疲れというのも、単に画面やヘッドフォンを通したやり取りが辛い、というだけではなく、何だか心の中にモヤモヤしたものがたまり、ずっと晴れない、といった類のものだったりする。

 もちろん、不慣れなツールを使ってコミュニケーションをとることによるストレスもある。しかしそれだけではない、何かもっと根本的なモヤモヤもある。私達の「存在」自体が消えていくような感覚、その感覚への怖れや不安といったものだろうか。

→ずっとオンライン会議などに参加していると、リアルでは普通出てこない「自分は本当に存在しているのだろうか?」という問いが、結構自然に、私達の心の中に湧いてくる。

・とくに自分の側のカメラやマイクを停止して、他人の話を聞いているようなとき、私達はふと「このまま消えてしまっても、誰も気付かないのではないか?」「自分以外がPCの前に座っていても、永遠にバレないのではないか?」などと感じる。

・また、自分が何かを喋っているときでさえ、何だかその声がどこか闇の中に吸い込まれていくような気がして「みんなちゃんと聞いてくれているのだろうか?」「ひょっとして、自分一人で喋っているのではないか?」などと考えてしまう。

 なぜそんな心理状態になるのかについては、専門的な研究に譲るとして、そういった感覚は私達に自分自身の「存在」とは何かを、あらためて問いかけている。

オンラインの「私」は存在しているか?

 私達はこれまでにも、フェイス・トゥ・フェイス以外のコミュニケーションをとってきた。例えば手紙・電話・メールなどによるやりとりは当たり前のようにやってきたし、ラジオやテレビ、ネット動画もずっと楽しんできた。オンラインのミーティングだけが突然出現した訳ではないのである。それなのに、なぜ妙に孤独感や苛立ちを覚えるのだろうか?

 重要な点として、様々なメディアやツールが発達してきた今日でも、みんなが「これだけはぜひ実際に集まって、リアルでやった方がよい」と考えてきたことを、やむを得ず、急にオンライン化してしまった、という背景はあるだろう。とくに以下の点に関しては、違和感がかなりあるかもしれない。

・リアルで会ったことがない

 現代人は、これまで何度も会ってきた人と電話やネットなどでコミュニケーションをとるのは慣れているが、一度もリアルで会ったことのない人とのやりとりが自然かつ親密にできるかというと、かなりネット慣れした人でないと難しいのではないかと思う。

 入社式や入学式、初対面の自己紹介なども省略するかオンライン上で実施され、全てがネット上でスタート、というケースが多くなった今年度、そのようにして知り合った人の存在は何となくぼんやりとしか感じられないし、また自分の存在も他の人からそんな風に捉えられているのではないか、という、漠然とした不安が出てくるのも仕方ないことかもしれない。

・今後リアルで会うかどうか

 既に会ったことがある人に関しても、今後いつ会えるかわからない、もしかするとずっとオンラインのままかもしれない、という状況では、徐々に親しみや現実感が薄れてゆく。下手をすると、「この人、本当にいたんだっけ?」などと思い始めることになる。

・双方向性

 参加人数がある程度多く、しかも自分自身があまり中心的な存在ではない場合、つまり自らはあまり発言せず、双方向性が感じられないミーティングでは、靄の中で話を聞いているような感覚がとくに強まったりする。日本の会議は元々、年長者や声の大きい人の発言をそれ以外の人々が黙って聞くことこそ美徳で、自己主張はよくない、といった雰囲気がある。ただひたすら、誰かの主張を聞かされるミーティングでは、「私が消えてしまっても、この人達にも世界にも何の影響もないのでは?」という感覚が生まれても無理はない。

・同時性

 オンラインのやりとりがリアルタイムでないとき(つまりオンディマンドなど、録画のとき)、非現実感は極致に達する。こちらは目の前にその人がいるつもりで聴いていても、その人は現在どこか別の場所にいて、違う人と話しているかもしれないのである。言葉やジェスチャーが巧みで、ついついそれに引き込まれたとしても、終わった後何となく侘しさを感じてしまうこともある。

 その感覚はむしろ正常なのかもしれない。これまでだったらリアルタイムでこちらに向かって話していない人と「コミュニケーションをとった」と信じてしまうようなことは、「騙されやすい」人のすることだった。しかしオンライン時代になって、正気でそれをしなさい、ということになってしまったのである。

 なお録画の場合、たとえ相手が「あの世」にいても、少なくとも再生は可能である。例えば新型コロナが流行し始めてから、志村けん氏の追悼番組が多く放送されており、子ども達はそれを大笑いしながら観ている。微笑ましいことではあるが、そのように、すでに存在していない人が存在しているかのように扱われる世界では、逆にいま存在している人は何を持って「存在している」とみなされるのか、という根本的な問いが出てきてしまう。

 よく考えてみると、これまで故人が出てくる映画やビデオなどを私達が心から「楽しんで」いたときも、一方通行のコミュニケーションのようなものが行われていたのかもしれない。ただそのとき私達は、「これは過去のものだ」という認識だけは明確に持っていた。

(2)に続きます。

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