オンライン化と私達の「存在」について(2)

存在しているかどうかは重要なのか

 私は今回、存在についてあれこれ語っているが、存在(や実存)というものは哲学の最も重要なテーマの一つなので、専門外の私はなるべくその正式な定義などには触れないようにしたいと思う。ともかく、「存在感」などと言う場合の、一般的な意味における「存在」のことだとして、話をしていきたい。

 ただ、哲学やそれに関連した分野を少しでも勉強したことがある人なら、私達があるモノや人が「存在」していることを絶対的に証明することは難しい、ということは知っていると思う。目の前にある(ように見える)ものを、別の人が「ない。全然見えない」と言い張ったとき、その存在を「証明」できるか。そもそも、そう言っている当人が(幻影や幽霊ではなく)本当に「いる」こと自体、どうやって確かめるのか。

 近代以降、こういったことを確かめる「正しい」方法は、一般的にはないとされている。そこそこ支持される考え方としては、私達自身がはっきりと「あるように感じる」なら、仮に「存在している」ということにする、といった程度だろうか。

 このように抽象的な議論をしていると、みなさんは次第に「存在するかしないかって、そんなに重要なのか。どっちでもいいじゃないか」と感じるかもしれない。ただ、より実際的な意味において、それは大事なことなのである。

・実際の行動や社会に影響する

 私達は自分自身や他人、さまざまな物事が本当に存在していると信じているからこそ、やる気が出てくるし、色々なことを「頑張れる」という面はあると思う。せっかく関心を持っている物事が実際にあるのかどうか分からない、評価してくれる人がいるのかどうかも分からない、自分自身の存在もあやふや、全ては靄の中、という感覚に陥ると、人間は実際の生産や消費に身が入らない。

 つまり、そういった感覚は「現実」に大きな影響を与える訳で、(もしその「現実」なるものが本当にあり、かつ重要だとすれば)かなりの問題であることは間違いない。

・お金をかけてきたことは「不要」だったのか?

 具体的な例で考えてみよう。私達はこれまで、他人に何かを依頼するときや会議のときは実際に会わないと失礼だというから、わざわざお金をかけてその場所へ出向いていた。そのとき着る服も、手土産も、交通機関のチケットも、リアルで入手していた。しかしそうしたことは、今年の春から「全部いりません」「ウィズコロナですから」などということになってしまった。全てはCGかもしれないような、バーチャルな映像だけでいいですよ、とされてしまったのである(映像OFFが認められるミーテングなら、CGすらいらない)。

 新型コロナの大騒ぎではっきりと自覚しなかったが、よく考えてみると、それなら以前か今かどちらかの常識が「間違い」だということにならないか。みんな昨日まで、「ふれあいが大切」「VRはしょせんVR」と言っていたではないか 。狐につままれたような感覚に襲われながらも、社会がはっきりと不要だと言い出したから、人々はリアルの生産や消費をやめてしまった。

虚無感について

 もっと深刻なのは、精神的な影響かもしれない。一言でいうと「虚無感」だろうか。私達の人生の目的など、本当に大切だと思っていることはリアルのままで、単なる些末な仕事とか、その他生きていく上での「手段」だけがオンライン化されるならまだよい。問題は、このままだと「目的」の方までバーチャルになってしまうかもしれない、という不安である。

 例えば「旅行」がオンライン化されてしまったらどうだろうか?多くの人達にとって、旅は趣味や楽しみであって、お金を稼ぐ手段ではない。自分の身体は移動させないで下さい、録画した映像を観るか、またはドローンなどを操作して、撮影された景色を楽しんで下さい(食べ物は宅配で届けますから)、と言われたら、それはそれで面白いかもしれないし、CO2が減るので環境には優しいかもしれないが、私達は旅した、と言えるのだろうか。

 そういった動きは、ゲームに関しては既にだいぶ前から進んでいることであって、そういえば stay home が始まってから、コミュニケーションゲーム上でバーチャルな家の整備などに何十時間も費やしている人がいる、というのは、よく聞く話である。

 ただ、全てがバーチャルになってしまったら、私達は生きている、といえるのだろうか?SF映画などにときどきある設定だが、生まれたときから(または人生のあるタイミングから)頭に電極を接続され、ずっと「夢」のようなものを見続けている人というのは、この世に「存在」しているといえるのだろうか?

 仕事は全てPCで行い、「いるかいないか分からない」上司にオンラインで提出し、報酬はオンライン上で口座に振り込まれる。消費のためにお金を使うときも、オンラインで引き落とされるし、その使い道はバーチャルな旅行や映画、ゲームなど。すごく努力して業績を上げたり、世の中の人々のためになることをするのもネット上で、その表彰もオンラインでなされ、SNSの「いいね」でカウントされる人生、というのは、SF映画で身体は寝たまま仮想現実を体験させられている人の人生と、どこが違うのだろうか?

そもそも「私」は存在しているか?

 ところで、生まれたときからリアルの毎日を生きてきた(と、少なくとも思っている)私達は、そういうバーチャルな社会を想像すると、何となく薄気味悪い、何かが違う、と感じる訳だが、デカルト以来の近代哲学は、私達が「リアル」だと思っている物事も、もしかしたらそんなものかもしれない、と常に問いかけてきた。

 私達は日々、クライアントや上司の要求に応じて、ときには過労死してしまう程、必死に働いたりするが、そもそもその人達って、本当に「存在」するのだろうか?そして、そういったものに一日の時間の大半を使わされてしまっている私達自身、自信を持って存在するといえるのだろうか?

 リアルだったら普通問いかけないようなことが、昨今のオンライン化によって、かえってはっきりと私達に突きつけられてきたりする。

...だからどうだ、ということかもしれないが、そういった視点を持つことは、少なくとも私達の生き方をあらためて見直すきっかけにはなるだろう。

→(3)に続きます。

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