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北九州の成人式を見ていたら、吉永マサユキさんを思い出した。写真家・吉永マサユキさんとの思い出

今日、このネットニュースを見て写真家の吉永マサユキさんのことを思い出した。

吉永さんと初めて出会ったのは、パルコギャラリーで開催された写真展「申し訳ございません」だった。

暴走族、ヤクザ、ドラァグクイーンや大阪、十三の風俗店従業員、ギャングなど、おおよそ「アウトサイダー」と呼ばれるような人たちのポートレート集。
その人たちが「あちら側」にいるアウトサイダーとしてではなく、こちらに友人のような絶妙な距離感の目線を向けているのだ。いわゆる通りすがりに撮らせてもらうストリートスナップではなくて、真摯に向かいあって一人一人と対峙している感じ。被写体一人ひとりに圧倒的な存在感があった。

あ、この人は「あっち側」の人なんだ。と直感で感じた。と同時に写真に抜け感というか、独特のスタイリッシュさもあった。写真がウェットではないのだ。オフビートのざらっと乾いた感じ。もの凄くかっこよかった。でもユーモアや優しい眼差しもある。こんな写真見たことない。衝撃を受けたのを覚えてる。

同時に暴走族の特攻服や黒ギャルの服装は、とても日本独自のものだと感じ、当時ベネトンのアートセンター「ファブリカ(Fabrica)」にいて「COLORS」という雑誌のアートディレクターをしていた友人に写真集を送った。
友人は日本人で、武蔵野美術大学の写真部でのつながりだ。

そうしたら「COLORS」のファッション特集号に吉永さんの写真が掲載されることになった。当時ファブリカには世界中から、優秀な若いアーティストが集まっていて、その人たちにとっても吉永さんの写真は衝撃だったそう。

その後、吉永さんはお礼に焼肉を奢ってくれた。
待ち合わせは恵比寿駅前。そのころはスマホもなかったから吉永さんは自分の目印を「鯉の滝登りの柄のアロハを着てます」と言っていた。
焼肉屋では初めてマッコリを飲んだ。そしてその時に聞いた吉永さんのこれまでの軌跡は、とんでもなく面白く破天荒で、でもしっかり大阪の人情も感じられて映画を観ているようだった。のちに自伝小説「へたれ」になった。

吉永さんの大阪弁は、大阪生まれの祖父が喋る言葉ににてるけれど、わからないところもあって、特にたびたび出てくる「いわすぞ」がわからなくて
「どういう意味ですか?」と聞いたら
あ『ケツから手ェ突っ込んで奥歯ガタカタいわすぞ』の略です」と丁寧に教えてくれた。

ヤクザの家に生まれ、生まれた時にお父さんは刑務所いた。母子家庭で当然のように極貧家庭。悪行の限りを尽くした少年時代。それを救ってくれたのは民生委員のおばちゃんや高校の先生だった。ご飯を食べさせ、高校の学費まで払ってくれたそう。その後、テキ屋や佐川急便で働きながらお金を貯め、外国人の彼女と付き合ったりしながら大学まで進学する。目指したのは児童福祉に関わる仕事だったそう。
写真家になったのは、暴走族やヤクザの舎弟など社会からドロップアウトした少年達の写真を撮ることで、彼らと真剣に向き合い、「写真家」という自分の生き方を見せることで、こういう生き方もあるよ、と可能性を見せたかったからだそう。

この時、真剣に向き合ってくれた民生委員や高校の先生がいなければ、今はなかったかも知れないと言ってらした。
最後に店を出る時には、領収書に「よしながと書いてください。あ、漢字は吉永さゆりの『吉永』です」と言っていた。

その後、吉永さんは、私の本当にささやかな写真展にも足を運んでくれた。
年賀状は毎年、緑の蛍光カラーで宛名書きがされていた。
新宿駅南口の大規模工事で仮囲いに巨大なポートレート群を印刷した「新宿ID」というプロジェクトでは、私も撮影してもらった。ここまで大きな自分の写真は見たことなかったから少し恥ずかしかったけど、本当に良い思い出だ。
高校時代の同級生が見つけて連絡をくれたのも嬉しかった。

その後も暴走族を7年間も追って撮影した「」や、銭湯の男風呂での赤裸々な姿を撮った「SENTO」や、暴走族やギャルなど10代〜20代が被写体の「若き日本人の肖像」など吉永さんでしか撮れない写真を見た。そしていつも圧倒された。
最後にお会いしたときは日本の地名で「神」が付くところを撮っていると言っていた。今、どうしているんだろう?

たまに実家に帰っては吉永さんの写真集を見返す。
真剣に人や写真を向き合っているか?問い正されるような気分になるから。


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