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インド目線で古文・漢文不要論を考える

こんばんなまらステ🩷Kyoskéこと厚沢部煮切(あっさぶにるぎり)だべさっ✨

繰り返されている議論ではあるけれども。

これに対して教養云々の話はもう聞き飽きたかなと。

本人が役に立ってないと思ってるならそこまでじゃないかと。

あえて北インドとの比較で考えてみようじゃないか。

インドの学校は母語➕英語➕なにかの3言語教育ということになっている。

したがって教員がいるのであれば日本語を学ぶこともできる。

ヒンディー語が必修ではないことに意外性を覚えるかもしれないけど、結局英語で回ってる国なんだよ。

モディ首相率いるBJP(バーラト人民党)政権は必修にしたいと考えているけども、なかなか難しいだろうなと。

北インドではヒンディー語が母語であるか、それ以外でもメディアの影響もあってヒンディー語とは意思疎通できることが多いので、第3言語には外語かサンスクリット語を選択する人が多い。

これに対して南インドは第3言語にヒンディー語を選ぶ人がどーしたって多くなってしまう。意外と南インドでヒンディー語が通じたと感じたことがある人は多分、こーゆー人に遭遇している。

でもこれは建前。

まず、4人に1人は学校に行けていない。

学校に行けていても、第3言語の教員はいないことの方が多い。

結局社会階層、要するにカーストが高かったり、大都市圏の方が3言語教育を受けやすくなる。

また、英語教員もわざわざ欧米人を連れてくるなんてことはありえないから、ヒングリッシュティーチャーに当たってしまえばヒングリッシュが連鎖する。

ど田舎に行くとそれすらもいないことがあり、インドのど田舎で英語が全く通じなかった、という話をたまに聞くのはそーゆー地域なんだよね。

モディ首相は独立100年にあたる2047年にインドを先進国にすると宣言している。

そのためには就学率100%かつ3言語教育100%にする必要がある。北欧並みってこと。

ここでヒンディー語とサンスクリット語の関係を見ておきたい。

サンスクリット語は紀元前から今のパキスタンを含む北インド世界で使用されていたけれど、ラテン語と同じように段々と文語化されていき、そこから派生というか変容というかした口語が各地で使われていた。

言語は権力が統制しなきゃ必ずそーなるんだよね。

13世紀以降、デリー近辺はイスラーム王朝の支配が続き、ペルシャ語、アラビア語が支配階級の言語になるけれど、次第にペルシャ語、アラビア語の語彙がデリー近辺の庶民にトリクルダウンして、ウルドゥー語が成立する。

ウルドゥー語はパキスタン🇵🇰の公用語、かつインドでも2割のムスリムが話す言語として附則言語のひとつとなっている。

ヒンディー語はヒンドゥー教徒の共通語をつくる動きが英領時代に高まり、ウルドゥー語をもとにペルシャ語・アラビア語由来の語彙をサンスクリット語由来のものに変換して生まれた言葉。

ということで元を辿っていけば、現代ヒンディー語とサンスクリット語は日本語の現代文と古文のような関係性にあるといえる。

北インドのある程度都市部である程度社会階層が高い人であれば、選択科目としてサンスクリット語を学ぶチャンスがある、ということになるけれど、

裏を返せば一定の教養ある北インド人であっても、サンスクリット語を選択しなかった人についてはあまり知らないということになる。

古文・漢文を選択科目にすることを主張している人はインドの教育制度を模範にしてるんじゃないかな。(絶対違う🤣)

ヒンディー語の必修化は反対だけれど、サンスクリット語の必修化はある程度やってもいいんじゃないかとも思っている。語学枠ではなく、哲学・思想を学ぶような枠でやればいいのではないかな。

南インドでも北東インドでもそれなりにヒンドゥー教というかヴェーダ宗教の影響下にはあり、ムスリムやクリスチャンであってもインドで育てばそうした世界観の影響はあるはずなので。

この考え方を漢文にも適用したらいいのかと思っている。

古文と漢文は切り分けて考えた方がよく、古文は昔の日本人が考えてきたことを読み解くために必要なもので、漢文はかつて日本の外の情報を得るための手段だった。

古文の枠をまるまる設ける必要はなく、かつイメージの付きにくい平安・鎌倉時代の話ばかりやるのも違う。

戦後→戦前→江戸時代→室町時代→鎌倉時代→平安時代→奈良時代(万葉集)という風に少しずつ古くなっていけば、もっと自然に読めるでしょ。英国の授業では現代文の先にシェイクスピアがある。それと同じ。

漢文はどちらかというと中国の思想を知るためにあったわけで、インド哲学やギリシャ哲学などと並行して学べばいい。哲学・思想の授業を小学校からきちんとやって、暗記科目ではなく、ディスカッション中心の需要にする。中国思想を学ぼうと思えば当然漢文に当たる、ということにしたらいいのかと。

戦前の人が英語をはじめとしたヨーロッパ言語を比較的すんなり習得できたのは漢文の素養があったから。もちろん蘭学がベースだけれど、その蘭学こそ漢文の素養を基にできたもの。

漢文の素養がない戦後の人が戦前の人より英語がニガテなのも当然だと思う。

しかしながら、今なら小学校から英語の授業があるわけで、かつて漢文が持っていた役割はそっちにシフトしちゃったわけだ。インドを見習って3言語教育は日本も導入すべき。

でも、中国思想を学ぶことの重要性は変わっていないはずで、その道具として漢文を習得することはあってもいい。これもしかして、英語と語順似てないかな、って逆の気づきを得られたらいいじゃん。

小中高で学べる量は限られているわけで、そのなかであれもこれも、ってやっていけば内容は浅くなるのは仕方がない。

逆にできるだけ広く様々な領域のものに触れておくことで、のちのち必要になったり、関心を持ったりしたときにアクセスできることが大切。

例えば能を観て何言っているかわかんないので、古文を学び直したい。そー思った時に、タブララサ(白紙)なのと、なんとなく聴いた記憶があるのとでは全然とっかかりが違うからね。

その観点からいえば古文・漢文は受験科目として暗記物にしやすいため、時間を取り過ぎてると思うよ。

古文というか日本文藝の授業としてどんどん時代を遡っていくのと、哲学・思想の授業として中国思想を学ぶなかで漢文の読み方を紹介したら、それでいいと思う。

教養云々の話がお腹いっぱいなのは、結局その人の願望がそこに詰まっちゃうからなのよ。必要な時、関心を持ったときその分野に簡単にアクセスできるための広く浅い知識を小中高で学ぶ。

役に立つ、立たないではなく、必要な時が来れば役に立つ、というのが重要。

ホントそれだけでいい。

広く浅く、というのがどれだけかというと普通自動車運転免許に受かる程度の読解力や社会常識でいいんじゃない。

一時期流行したおバカタレントと呼ばれた人達はそれに受からなかったというからさ。それは日本の教育の敗北だと思う。

できない子を置いていくんじゃなくて、簡単な内容を完璧に、って方に重点を当ててほしいかなぁと。

それじゃあバイバイなまらステ🩷厚沢部煮切でしたっ✨








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