「 あれ、わたしもう幸せだった 」大学講義での学び振り返り

玄田 有史さんによる大学講義、「クールヘッド・ウォームハート-みえない社会をみるために(学術俯瞰講義)第1回 みえない社会をみるために」を受けての学びを振り返る。

・希望の社会科学、希望学、希望についての研究、そのような分野があるということを知らなかった。
「希望」「幸福」「夢」、何気なく使っているけれどその意味はとても漠然としている。その漠然とした曖昧さに翻弄されているような気がする。
そういうものを賢い人が真面目に研究している事実、そしてその講義を受けられるのは私にとって凄くときめくものであった。
なかなか注目されないもの、掬い取られないもの、そういうものに焦点を当てて深めていくということに惹かれる。
私を満たし潤してくれる。


現象の医学では証明できない痛み、
確かに証明できるのに痛み感じないという事実、
”現段階”の医学では証明できないことだとしても、その声を切り捨てず、無視せずに、「新しい病気かもしれない、新しい治療法が見つかるかもしれない」考えはじめるということが医学の発展に繋がる。

「希望がある」「希望がない」どちらの声も切り捨てることなく、耳を傾けることで「希望」が発展していく、という内容が印象的だった。
既存の枠に自分を当てはめることは安心感もあり、比較的容易なことであり、何気なくしてしまうことなような気がする。
でも、自ら枠を作っていくことは「発展」に繋がるということ。
自分を大事にすること、守ること、居心地よくさせてあげること、そういう努力は、巡り巡って他の誰かを苦しい枠の中から解き放つことを助ける可能性もあるということ。

私自身も自分をもっともっと解き放ってあげたいと願うように、たくさん本を読んで学びを得て新しい枠を集める作業を一生懸命やってきたと思う。
それによって自分の枠を少しづつ更新できてきたと思っている。
そうやって息がしやすくなっていたのも事実。
でも、”自分で”枠を作り出してもいいということ。
そのための説明書はどの本にも示されていない。
自分に問うていく以外道はないということ。
随分私はその作業を疎かにしてきたように思う。
既存のものからでは「発展」にはならない。
模倣はもちろん大切だ。そこから始まるとも思う。
でも、0→1の作業。私から始まる1を。私にしかない1を。

私は「幸せ」になりたかった。そのために必死だった。もがくように生きたかった。

でも最近、本当にふと、もう十分に幸せであることに気づいたのだ。
あれ、もう私って幸せじゃんか、と。

もちろん、なんで私生まれてきてしまったんだろう、と、変わらずずっと思っている。
望んでもないし、こんな大変だなんて聞いてないし、あまりにも理不尽な話だなって思う。
「死」が怖くない。そんな自分が恐ろしいほどに、怖くないんだ。
そして今、十分に幸福なのである。

その切っ掛けは分からない。ずっと気づかずにいた。
「幸せ」にはなれない。時間がかかる。ずっと先にあるもの。
そんなふうに暗示をかけて、遠ざけていたけれど。
それもきっと既存の枠に当てはめていたのだと思う。
でも枠を取り払って自由な自分と向き合って気づいた、違った、私は今幸せでした。

条件が全て揃ったとか、無理して言い聞かせているとかではなくて、とても自然にそう思えている。

現代は格差社会だという。貧富はもちろん「幸福」を感じることにも格差が生まれているという。下層がとても増えているという。
決して裕福ではないけれど、「幸福」には恵まれている自分を嬉しく思う。

・希望と幸福の二つをバランスよく保つことが重要だ。
希望は変えていくこと、幸福は今あるものを維持し守ること。
この指標は意識していきたいと感じた。

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