すべてをひっくり返すような、一目惚れのようにドラマチックな、そんな出会いではなかった。日常のなかにするりと入り込んできて、戸惑うわたしの中に当然のように居座っている。必然だったのだろう。その瞬間から、わたしはふたつの原理を行き来している。 逃避でしかないと思っていたファンタジーは、単に逃げ場所ではないことを知った。きみが生きるもうひとつの現実というファンタジーを体験することで、わたしもまた自分の現実をいっそう生きることができる。 眩しそうに、ほんとうに嬉しそうに客席を見渡すそ
いいお天気の休日だった。 あまりお客さんが来ない日が続いていて、この時世には仕方ないことではあるけれど、わたしは少し不安でしょんぼりしていた。店の棚に並んでいるたくさんの本もしーんと静まり返っていた。 閉店時間も過ぎて、今日はそろそろ終わりにしようかと思った時、ひとりの初老の男性が入ってきた。ここの場所がわからなくてウロウロしていたら、小さな女の子が「本屋さんまでご案内します」と言っていっしょに来てくれたという。もう夕食の時刻、すでに薄暗くなっていた春の夜に不思議な感じがした
曲線は、孤独なときに思い出される場所であるように思う。元気で楽しいときにはすっかりその存在を忘れているのに、たとえば雨が降っていて、沈んでいくような心持ちのときにふと足が向かう場所。そうであれば嬉しい。さみしさや悲しみは決してネガティブなだけの感情ではない。深い悲しみや孤独の中にいて、それを誰にも咎められないことが必要だといつも感じている。 曲線を "アジールのような場" と言ってくれた人がいたことについては、エッセイ『茂りゆく場所 (文藝誌「群像」2021年6月号)』の中
去年、秋の入口の風が吹く9月に『曲線』という本屋をオープンした。 3年にも5年にも感じるほど、ハードモードな一年であった。 わたしの顔もずいぶん渋くなったかもしれない。 ジョセフ・コーネルの展覧会を見に行った時のこと。 緑豊かなその美術館の庭園でひと休みしていると、手のひらほどもある極彩色のムカデのような虫がカサカサと歩いている。 しばらく見ていると、少しずつ、でもずんずん進んでいく。 野原の端っこまでいくのだろうか。丸一日かけて? 端っこまでついたら次は何をするのだろうか