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『声めぐり』齋藤陽道

彼の文章を読むと「厚手のふわふわの、ピンクの毛布」を思い出す。毛足が長くて、ついスリスリしちゃいたくなるような毛布。そしてこれも思い出す。「柔突起(じゅうとっき)」。腸は栄養の吸収を高めるために、表面を多数のヒダにすることで表面積を増やす。何が言いたいかというと、「とてもなめらかで、情報量が多い」ということなんだけど。音が聞こえない夫婦の子育てについての『異なり記念日』(本79)に続き彼の本を読むのは2冊目。

聴覚に障害を持つ写真家の齋藤陽道さんによる、彼と、声・ことばを巡る記録。音が聞こえない、言葉をクリアに発せないということはどういうことか。クラスメイトにいじめられる、バカにされるということは割とすぐに想像がつく。でも言葉をクリアに発せないことで、自分の気持ちを伝えるときに、発音を褒められる文字を使った単語を使うようになっていく。そうすると、自分の気持ちとのギャップが出てきてしまう。彼はノイズの止まない補聴器をつけ、発音をひたすら練習させられる。自分ではできているかどうかわからず、相手の反応によって結果を知るのみ。そんな彼は子供の頃の記憶がすっぽり抜けていて、幼い頃の自分の写真を見て「ドッペルゲンガー」だと思う。そんな彼がろう学校に入学し、手話で言葉を取り戻す。友達や写真と出会っていく。

齋藤さんの経験と感覚には遠く及ばないが、私にも声やことば、コミュニケーションによるギャップの経験がある。私の母は普段補聴器をしていて、外していると呼びかけても全く反応がない。お母さんが知らない人になったようで、怖い。留学しているときに英語が全然聞き取れなくて、わかったふりをして笑ったり、あいづちを打ったりした。言いたいことが言えない、相手の言っていることがわからない。存在がなくなっていく。英語ができる人のほうが(ただの生まれつきなのに)立派に思えて、どんどん卑屈になる。言葉って、コミュニケーションってとても大きい。

聴覚を補うため、彼の生来の繊細さのため、と理由は様々だろうが、彼は本当によく見て、感じている。それが文章を通じてよくわかる。普段の自分の視界が前方120度くらいだとする。ちょっと意識すると180度まで把握することができる。さらに、例えば夜道で後ろからヤバい人がやってきたら、目では見えなくても背中の方までセンサーをめぐらす。彼は常にそういうセンサーがONになっていて、しかも空気中の要素まで感知しているような感じ。そんな人が「世界を美しい」と感じたときに発する情報量が、普段画素数の少ない世界で生きている私に流れてくるなら。それはうっとりするくらい甘美でなめらかなのだ。

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