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10代のわたしにかけられた「ブス」の呪いを解いていく話。 〜その1〜

この時期は、忙しい人も多いから読む人も少ないだろうとこれまであんまり話したことのないことを書いていく。
本業と関係ないし、公開しようか迷ったけれど、これを乗り越えないと進めない気がする。
人によっては重いと感じる内容かもしれないし、「そんなことくらい」と呆れる内容かもしれない。
ただ、これはずっとわたし自身の外見に対する思いを縛ってきたし、苦しさの原因にもなったことなので、わたしには軽いことでもなかったことにもできないことだ。でも、ここで手放しておこうと思う。


突然だけど、わたしは自分の顔が好きになれなかった。
ありがたいことに、大人になってからキレイと言われることもあったけど、「この人はわたしの見える世界とは違うものを見ているのだなあ」と思うだけで、自分のことをキレイだ、美人だ、かわいい、と思えることがなかった。
整形手術で顔を変える方法は、切ったり縫ったりが怖すぎてやりたいと思ったことがなかったし、何かに忙しくしていると自分の顔が好きではないことは忘れられたので(鏡を見なくても済むから)自分でもそこまで深刻ではないと思っていた。
でも、写真を撮るときなど「人に見られる」と意識が入ると、とことん自分の顔にダメ出しを始めてしまう。他人には絶対使わない言葉さえ使って、罵りに近いくらいのことを自分に言ってしまうのだ。

最近になってようやく、これが原因だったかもと思い出したことがあった。

見知らぬおっさんに「ブス」と言われた

「お前はブスだなあ」
初対面の男の人からハッキリとそう言われた。
お祭の屋台の店番をしているおっさんだった。薄汚れた気配の笑い方が気味が悪いと感じたことまで覚えているのに、その瞬間の自分の感情が全く思い出せない。

中学で陸上部に入ったわたしは、大会に参加した帰り道、同級生たちとお祭りの屋台に立ち寄った。
同じ小学校から中学に上がって陸上部でも一緒になった3人一緒にいた。一番愛想のいいAが屋台のおっさんと話していて盛り上がってた。学年で美人だと言われるBはそれを隣でニコニコして聞いていた。Cはおちゃらけて話に入っていった。小雨の降る中、おっさんに全く興味もないし早く帰りたいしで、少し離れてそのやりとりを見ていた。
おっさんはAとBを「お前らはかわいい」、Cを「お前は愛嬌がある」と言い、わたしを見てブスと言った。
その屋台を離れた後、Aは笑いながら「きょうこちゃんだけ、ブスって言われたね」と言ったのを覚えている。こいつが性格悪いのは、前からだったけど、ここまでこんなに明確に思い出せるのに、言われた瞬間の感情は全く思い出せない。たぶんその時、無意識に感情のスイッチを切った。傷ついてないフリしてたけど、今でも痛みは残っている。あれはものすごく嫌だった。

今、そんなおっさんが中学生にブスと言ってるのを見たらぶっ飛ばしてやりたい。(そして、いろんな方法で社会的に抹...以下略)
自分に興味を持たない中学生が気に入らなかったのだろう。この俺様に話しかけないとは何事だ?とでも思っていたのかもしれない。
今なら、おっさんの心理状況は単純すぎて想像つくが、10代前半の子供に対して中年の男性が外見をジャッジしてくるという恐怖は、想像すらしたくない。
あの時のわたしには、何もしなくても見た目をとやかく言われて嫌な思いをするという不安を植え付けられたのだった。


「ブス」という顔

じゃあ、わたしは本当にブスだったのか。ブスと言われて当然で、Aに笑われて当然の顔だったのだろうか。
待て、ブスの定義ってなんだよ、おっさんに愛想ふりまかないことかよ。

今になって思い返すと、当時のわたしは表情がなかった。出せなかった、という方が合っている。当然、愛想笑いなんてできなかった。
笑顔は七難隠すだっけ?違った、いや、でも合ってる。
無表情っていうのは、相手に不安感を与えるのかもしれない。それなら、おっさんがブスって言うのは…いやわかんねーよ!わたしが無表情なのと、おっさんがわたしを気に入らなかったこととは別問題で、暴言吐いていい理由になる訳ないよ。
待って、おっさんはどうでもいい。
わたしが無表情になった理由はなんだ。

顔の奥の心の中

小学生の頃、すでに感情を殺してた。そうしないと生きていけなかった。小学生で生き死になんて大袈裟な、と思われるかもしれないけれど、自分で選べない環境で他に逃げる術もなく毎日を耐えるしかなかった。毎日毎日、どうすれば自分の抱える苦しさがバレないようにするか考えてた。「小学校の頃なんて、毎日、何にも考えなくてよくて楽しかったな〜」という人たちもいるけれど、多分その人たちには想像もできないと思う。嫌味じゃなくて、そんなふうに生きていられたことが素直にうらやましい。

小学校から中学に上がって環境が変わっても、いいことなんてなかった。学校の中では、大変なことばかりが増えて、その代わりに自分で選べることがほとんどなくなっていった。それなりに仲がいい子もいたし、好きになった男の子もいた。趣味の合う別のクラスの友人ができたりもした。ただ、中学時代を思い出すと全て夕暮れ時みたいに薄暗い景色しか思い出せない。誰にも言えない、言葉にすらできないもどかしくて苦しい気持ちがあったけど、助けを求めたって誰も助けてくれないと絶望と諦めがあった。実際、助けを求めたけどどうにもならなかったことがあった。ここでは今は詳しくは書かないけれど、それから余計に1人で抱えるようになった。

そのせいなのか、その頃の写真を見ると、自分の顔なのにどんな感情だったのかわからない表情をしている。怒っているのか悲しいのかもわからない。思いっきり笑顔でもなければつまらなそうでもない。感情を出せないでいた。何かに悩んだとしても、誰にも気づかれたくない気持ちでいっぱいだった。それなら感情だって出さないほうがいい。
家でも学校でも、「やらなきゃいけないこと」ばかり詰め込まれて、どこから自分なのかわからなくなっていた。それでどうやって、楽しそうにやっていけるのか本気でわからなかった。そんな気持ちを外に出す場所もなかった。言葉にするべきでもないと思っていた。だから、いろんなことを感じないようにした。自分の感情は特に隠した方がいいとさえ思っていた。だから顔から表情が消えた。
勉強も運動もできて、かわいくて目立つ子が同級生にいた。その子になりたいと思った。でも現実は、鏡の前でも変わらず同じ顔が毎日こちらを見つめ返していた。

そんな毎日を送っていたのに、初めて会った屋台のおっさんに「ブス」と言われて、その奥に抱えてた悩みをめった刺しにされた感じがしたのだ。嫌な刺激は、芋づる式にもっと嫌な思い出を掘り起こしてくれる。だから自分の外見が、誰かの目に触れることがわかっているものに関わるのが怖かったのだ。

不安と理想と

今でも、見た目で何か言われるんじゃないかという不安は完全に消えたわけではない。「ブス」と言われてもすぐ言い返せる自信はない。ないけど、言ってきたやつのことは何かの形で仕返ししてやろうとは思っている(←性格曲がったかもね。やり返される覚悟ないなら言ってくんじゃねーぞくらいは思っている)。といっても、気にしないではいられないだろう。そしてそういう隙に、言葉をねじ込んでくる人はいるのだ。先述のおっさんみたいに、ブスって言葉を簡単に使う人にとっては、「この人は自分にとって都合が悪い」ってだけで使うのだ。

理想は「あら、そう。でもわたしは自分のこと美しいと思ってるから、あなたとは意見が合わないのね。」とサラリと言えること。自分が自分を美しいと思えたら、最強でしょう。

だから、そういう自分になれるようにしていく。

10代のわたし、もう大丈夫だぜ。俺がついてるからな、ってヒーローみたく言ってやるのだ。


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