脚本分析セミナー第4回メモ: 愛され主人公がハイスペックとは限らない理由
アメリカで広く教えられている脚本術にもとづいて、既存の脚本を分析してみよう、という趣旨のセミナーを、アニメスタジオで何度かやらせていただいています。
言いたいことが伝わると、それを現場で便利に使ってくれる人が現れる、手応えのある仕事です。とはいえ、話し下手なので不安が絶えません。だから次回はもっとしっかり伝えられるよう、不安な部分をここでまとめておこうと思います。
好かれる主人公像は早めに打ち出そう
物語には主人公がいます。そしてアニメや映画は、時間軸の上で物語を語る時間芸術です。視聴者は、その主人公とともに、ある一定の時間を過ごすことになります。そのとき、現実生活でもそうであるように、どんな相手であれ長い時間をいっしょに過ごせば、親しみがわいてくるものです。視聴者とキャラクターの間には、時間とともに深まる絆があるのです。
けれども、現実世界とちがって、視聴者にはアニメや映画といつまでもつきあう義務はありません。物語の先が気にかかれば、あと1分、CMのあと、そして次のエピソードへと、観続けてくれるかもしれないけれど、どうでもいいと思えばそれまでです。いわゆる「1話切り」でもいいし、1分でやめてもいい。つまり、作る側の立場からいえば、時間とともに自然に視聴者との絆を深めるだけでは、おそすぎます。
だから脚本上の努力によって、気になる主人公像を早めに提示する必要があります。たとえその主人公が、長く付き合えば魅力がだんだんわかってくる、かめばかむほど味が出るスルメのような人であったとしても、ならばそうであることを早めに提示しないといけないのです。視聴者に、長くつきあってもらうために。
具体的には、どのくらいの間に、主人公を好きになれる要素を提示すればいいのでしょうか。たとえば米国で劇場用映画脚本をコンペなどに送るなら、最初の10ページ、尺で言えば10分弱で面白くなければアウトだと言われます。そのあいだに主人公を好いてもらいたいわけです。だいたい2時間の映画の10分といえば8%だから、25分のアニメの1話だったら、2分? 急がなきゃ! それは大変すぎるとしても、少なくともACT1(だいたい25%)のあいだには、この浮気な視聴者ごころをがっちりつかんでほしいところです。
好かれる主人公の5ポイント
物語には主人公がいます。そしてアニメや映画は時間芸術です。視聴者(/読者)は、その主人公の行動を気にかけて、いくらかの時間をその作品に投資することになります。逆に言えば、気にかけてもらえない主人公だと、視聴者はその作品につきあうのをやめてしまう可能性が高い。その主人公が、その先、どうなってもかまわないからです。
では、どんな主人公なら、その先どうなるかが気になる、つまり「好かれる」のでしょうか。美人、イケメン、おもしろい人気者、正しいモラルの持ち主、がんばり屋……などなど、ステキな人のイメージが思い浮かぶかもしれません。でも、ほんとうに、そういう人、好きですか? クラスに自分よりステキでおもしろくて正しくて必死な人気者がいて目立ってたりすると、正直、カチンときませんか? どうでもいいから見えないところにいてくれよ、とか思いませんか? それは、映画やアニメのキャラとの出会いでも実は同じです。米国の脚本術で言われる、好かれる主人公の条件は、ふだんの生活で私たちがどんな人に出合うと本当に心がひかれるのかという条件と、とても似ています。
勉強する本や先生によって、好かれる主人公の条件はそれぞれちがう言葉で表現されますが、趣旨は共通しています。私なりに習ったものをまとめると、下のようなかんじ。
1. 目的がわかる(原始的欲望)
だれであっても、何かを求めて生きています。それが目的です。一見、目的に見えないような、消極的な欲望……たとえば、できるだけなまけたい! 早く家に帰りたい! 事なかれ主義で生きていきたい! などなど、それらもすべて、目的=ゴールです。そのゴールが、なるべく原始的でわかりやすいことが、好かれる1条件です。
原始的な欲望ってなんでしょうか。それは、理屈抜きで、だれにでもありそうな欲望のこと。死にたくない! 早く寝たい! ご飯を腹一杯食べたい! などなど。彼女・彼氏がほしい! あの人と恋愛したい! も代表的ですよね。お金がほしいとかもかなりいいかんじですが、なぜお金が欲しいのかの理由が、原始的であればあるほど、さらにいいです。
たとえば「廃校寸前の学校を救うためにアイドルとして大成したい」は、あまり原始的ではありません。でも、学校を救いたいという判断はなぜなのかと考えてみれば、たとえば「仲良しの友達といっしょにいたい」だったり、「家族に心配をかけたくない」だったり、もっと原始的な欲望/目的/ゴールが見えてきます。その原始的なゴールが伝わりやすいほど、その主人公のゆく先を、もっともっと見たくなってくるのです。
2. 不当にひどいめにあっている
なんでも持っていて平穏な生活を送っているカンペキな人のことは、うらやましいけれど、わりと、どうでもいいものです。それよりも、ひどいめにあっている人のほうが、その先が気になります。たとえば、超お金持ちでも孤独だったり。有能なスパイだけどなぜか左遷されたり。我ながら冴えない中学生なので目立たないようにしていたのに、イケメン優等生クラスメイトの一方的な都合により、生徒会候補にむりやり立候補させられたり。生活レベルは人それぞれではありますが、その中で「不当な」めにあっているのがポイントです。
3. 得意なことが1つある
上記のように、ひどいめにあっている人に出会うと、その先がどうなるのか気になります。でも、その人がまったくダメダメなだけで、この先にも明らかに希望がなかったら、正直、すぐに見捨てたくなってしまいます。ましてやアニメや映画の中のキャラだったら、現実ですらないから、突き放す……つまり「切ってもいいや」ということになります。人は、救いたいと思える理由を持っている人のことを、より気にするものなのです。それが、ここで言う「得意なこと」です。
この「得意なこと」は、たとえば「空を飛べる」とか超能力などの具体的なことかもしれないし、「誰よりも純粋」「わがままを貫いている」「すごくいい加減でそのぶん社交的」など、主観的なことや、一見欠点に見えることもあります。でもなにか、視聴者が「こいつは救われる価値がある存在かもしれない」と思える特別な要素だということが大切です。
4. 人としてよりダメな存在が身近にある
これは、いわゆる「友達キャラ」を想像してもらえると、わかりやすいかもしれません。敵やライバルではなく、主人公のそばに、もっとモラル的にユルかったり、ボケていたりするキャラが存在するということ。ガンダムで言えばアムロのそばにはハロがいたり、カイ=シデンがいたりする、というような。
人としてよりダメな、というのは、社会的地位が低いという意味にはとどまりません。たとえば『ドラえもん』なら、主人公ののび太のそばにはスネ夫がいます。スネ夫はのび太より立ち回りがうまくて家が金持ちだけど、ずるがしこくて卑屈で、モラル水準は明らかに低い。おかげで、一見できが悪く見えるのび太の、人として良い点が見えてきます。
5. プレッシャー下で真の性格が見える
これは、いちばん上の図にある、三幕構成の考え方からとらえると、わかりやすいと思います。主人公は物語の序盤、話前ゴールを追求して生きています。最終ゴールを追求する終盤の主人公とは、目指しているものがちがいます。それでも、プレッシャーを与えられれば、最終ゴールを予感させるような「裏の自分」を、物語の序盤でもつい見せてしまうのです。主人公が自覚していない、真の自分の姿です。
脚本指南書籍『SAVE THE CATの法則』の書名でおなじみの猫を救っとけの法則も、このポイントの内容ですよね。何を目指している主人公であれ、その途中ふとしたことで野良猫を助けたりされると、キュンとしちゃいます。実際に、ハリウッド娯楽大作では、一見テンパっている主人公が犬や猫を助けてホッとさせてくれることが、なんとも多い。なにもほんとに文字通り犬や猫を助けるんじゃなくてもいいんだと思うのですが……まさに教科書通りにやってくれることが多いです。そうやって、「こいつはいま自分のことだけでせいいっぱいかもしれないが、本当は世界を救ってくれるような頼もしいいいやつにちがいない……」と、その主人公の物語における進化と最終ゴールを、最初のうちから想起させてくれるのです。
私たちが思っているほど世界は辛抱強くないのかもしれない
以上のように、好かれるキャラクター開発についても脚本コースの初歩に入っているわけなんですが、残念ながら日本の映像作品~アニメ、実写映画など~は、ここが弱点になっている気がよくします。私も書き手として反省しながら書いていますが、見た目があるていど良くて、モラル的に正しい主人公が一生懸命になにかしていれば、視聴者は「このキャラはいいキャラにちがいない」と信じて、自然に絆が深まるまでがんばってついてきてくれる、という、視聴者への甘えがあるように思います。そして、それは実際、文化的な特徴からきているフシもあるようです。
というのも、英文の書き方の勉強で言われることとして、結論をまず先に書け、というのがあります。でも結論を先に書いたらつまらないから、最初はすこし匂わすだけにしてはっきりとは書かず、おいしい結論は最後まで取っておこう、と思うじゃないですか! でもそれじゃ、英文を読み慣れている人にとっては、興味をそそられるまでに時間がかかりすぎるし、文章がどこにいくのか分かりにくく、つまらないと感じてしまうのだとか聞きました。
言われてみれば、歌舞伎の物語などで、主人公が途中から「実は私は○○之○○助」と実は偉大な正体を明かしていくカタルシスが日本の伝統的なドラマツルギーの特徴のひとつだ、と聞いたことがあります。そこまで、観客は辛抱して観ているわけです。なんか普通とちがうやつだな、勇敢でえらいな、などと思っていると、後半になってからやっと偉大な武将だったと明かされ、やっぱりね! と膝を打つのが楽しいのだと。ずいぶんと辛抱強いものです。主人公が誰だかわからないからって、うちの観客は途中で席を立ったりはしない、と、書き手に思われているみたいですね。
でもそんな歌舞伎だって、その主人公はどこかふつうとちがう、というのは、最初から匂わされています。そもそも化粧が、平凡な人とはちがったりします。ただハッキリ言わないだけ。その匂いの明確さの習慣が洋の東西でちがうのかもな、と、私は考えています。
だから、もし製作中の作品をより広い世界のいろいろな観客にみてほしいと思うのなら、「この主人公の行く末を見てみたいと思いませんか? それはこういう理由でしょう? つまり、この人はこうしたいのに、これが足りないんだから、どうなるか気になるでしょう?」と、私たちの習慣よりも早めに、より明確に提示するよう、意識的に調整していったほうがいいと考えます。そういう調整に、このセミナーで扱っている米国の脚本論が、分析ツールとして便利だろうと思っているわけなのです。
以上が第4回の内容です。今後も、不安なところから書いていきたいです。もしご意見、ご質問が出ましたら、知らせていただけたら勉強になります。どうぞよろしくお願いいたします。
こぐれ
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