何故学校を創りたいんだろう?答えは自分の過去にあった。

学校を創る!と思いついたのは良いけど、そもそも何故私は学校を創ることにここまでピンと来てるんだろう…場合によっては今の仕事を諦め、社員に迷惑をかけるかもしれないし、家族を巻き込み、想像を絶する大変なことをやろうとしてる。途中で気が変わったりしないんだろうか…人に伝えていって、巻き込んでいって大丈夫なんだろうか...と思った私は、

まずは自分の意思と情熱の地固めをしよう!

最近特に注目されているコーチングでもまず最初にすることは自分の過去の洗い出しで、オンラインスクールに早速参加し、自分の過去と向き合って、本来持っている欲求や自分の理念を探してみることにした。(ちなみに自己探求が終わった訳ではなく、寧ろ自分を見直す習慣を身に付けることの大切さを学んでいる。)

さて、私はなぜ学校を造りたいんだろう。

1.私立進学校で6年間、受験勉強をした後に大学に入った時の教育格差の衝撃と挫折

私はまず地元の公立の小学校に通った。今思っても本当に楽しい小学校生活で、大きないじめも特になかったし、友達や先生にも恵まれた。今でいう、アクティブ・ラーニングのような方法で進んだ授業が沢山あって、そうやって習ったことは今でも記憶に濃く残っている。その後ひょんとしたことから中学受験をし、(私も親も、深く考えて中学受験をした訳ではなくてたまたまの流れだった。そのまま公立の中学、高校に行くもんだと思っていた。)地元で当時二番目に優秀と言われた受験進学校で中学、高校の6年を過ごした。ずっと放課後はテニスに没頭し、高校ではキャプテンを務め、団体でインターハイに行くぐらい頑張っていたので、私の6年間の学校生活の記憶はほぼテニス部活動であったともいえる。そして、6年間の普段の授業の記憶に関して言うと。。。はっきり言って、ほとんど覚えていない。教科書に沿って、先生が黒板で新しく学ぶことを書き出し、黙って聞く。先生の質問に手を上げる生徒はほとんどもしくは誰もおらず、(ちなみに中学校に入って最初の授業の記憶。小学校のノリですぐに手を挙げ周りを見るとたった2,3人。衝撃。2、3日後には私も手を上げるのを辞めてしまった。)または問題集を順番に解いていって答え合わせ。。まぁ、他の進学校でも大まかには同じような授業シーンでなないだろうか。ほかに覚えていることは、英語弁論大会に出て最後は東京大会にまで行ったことだとかの、課外活動の記憶である。

そして、6年間受験勉強をした私は最終的に、慶應義塾大学の環境情報学部にAO入試で大学に合格することになる。(確か、成績平均が4.0で、ギリギリであった私は3年生の時に必死で家庭科のエプロンを綺麗に縫ったりして点数を稼いだ記憶がある笑)
そう、最終的に大学が評価してくれたのは、学校のテストの点数ではなくテニスでの活動やそのほかの課外活動を通じた自己アピール、(ちなみに私は小学校からガールスカウトで、高校卒業まで続けたがそれらの活動も含む)そして大学で学びたいことの熱意と、なぜこの学校なのかを面接で語ることだったのだ。。。

いざあこがれの大学へ!!

東京と言っても神奈川県の果てにある通称SFCは、1998年に私が入学した時代に学生は一人一台ラップトップを所有し、自然が豊かな学校の隅から隅までは無線通信環境が整い、鴨池を見ながら芝生の上から課題を提出し、学校は24時間開放され、学生たちは「未来からの留学生」と言われ、様々な業界の一線で活動する教授たちが研究会を開き、学生たちと一緒になって未来を語り合っていた。学生が主体となったグループワークが沢山盛り込まれた授業が沢山あって、学生たちは自分の興味に沿って自由にカリキュラムを構成することができた。そして最先端のIT技術を使ったこれからの世界を自分たちで造る、そんな空気がキャンパス中にあふれ、私も含め、寝ることも惜しんで学んだり、創作したりしていた。今でもSFCでの学生生活は私の人間構築にとって何よりも無くてはならないものとなっているし、SFCの卒業生は未来を造る同士、というような仲間意識が今でも色濃くあるし、各業界で活躍するSFCの友人からは沢山の刺激を受け続けている。

しかし、だ。入った当時の私は、東京の最先端の教育を受けたり、海外で学んできた帰国子女の友人達の今までの話を聞いて、自分が受けた教育との教育格差への衝撃と挫折、そして劣等感を抱くようになった。
「やばい。。私は和歌山で、今までどんだけ遅れた教育を受けてきてしまったんやろう。。和歌山は本当に遅れてる。もうあんな田舎には一生戻りたくない!!そもそも私が6年間もの時間を費やした、受験勉強って何??????どうして私はろくに本も読んできてないん?!みんなは難しい言葉を使って理論を語り合ってる。私は。。みんなが何言ってるか全く分かれへん!!!!」

今思い返しても腹が立つ。13歳から18歳という、人間が構成される上で最も重要であろう年齢の朝8時半から15時ぐらいの(放課後の自習も合わせたらもっとか。。)脳みそや身体が一番活発な時間。その時間を、日本の子供たちは先生がしゃべることを見ながら黙って椅子に座って受け身で過ごしている。正直な所、あの時点で私が感銘を受けた友人たちがどんな高等教育を受けて来たのかは知らないけれど、私だけでなく日本の大半の子供が、寧ろ私と同じような詰め込み教育を受けてきたわけだ。ただ、誰が悪かったわけでもなく、それが良いとされてきた時代であったという訳だ。もちろんすべてが悪い訳ではないだろうが、今の教育には子供がアウトプットしながらの学び、そして個人の興味と可能性に沿った学びの視点が欠けている。そして学びと社会との関係性も。私が大学には行った時に苦労したのはそういう所だと思う。

そして、大学に入った時に芽生えた、ある想いがあったことを思い出した。

「勉強や学びの楽しさ。世の中の仕組みや働くことについて。これを、私は理系とか文系とか決める前に知りたかった。和歌山の中学生や高校生に、社会の大人と繋がり、学びの重要性、楽しさ、社会をどう変えていけるかを伝えられる場を作ってあげたい。」そう思っていた。

2. 私は学び続けている。

人生の中で、もちろん私にも谷があった。仕事での挫折やプライベートでの事件など、いくつかの修羅場があった。そうなった時、私はとにかくもがいてもがいてそこから這い上がろうとするのだが、いつも即座にする習性に気づいた。それは、学校に行って学ぶということ。思い返せば、大学を卒業してからもワインスクールであったり、経営スクールイタリア語検定を受けたり、そして新型コロナになってからも、映像スクールオンラインでの勉強会で学び続けている。そして当然、その時興味がある事項について本を読みまくっている。私にとって、学ぶという行為は新しい道を切り開くための手段であり、そして学ぶこと自体が楽しみで、娯楽でもある。実際私の親戚の中でも90歳を超えて生け花教室に行って、「私なんてまだまだ」と言ってるし、別の親戚も60歳で仕事を引退してから始めた英会話教室を楽しみにしている。生涯学習と言われているけど、人間は何歳になっても学ぶことができるし、成長することができると身をもって感じる。

3.人生の転換期に先生やボスからもらったチャンス

もう一つある。私の人生を振り返った時、ターンニングポイントとなったポイントで、必ず大人に助けてもらった経験があるということだ。

もちろん、私が行った中学、高校生活が無ければその後の人生は無かったわけで、そのチャンスは親がくれた。そして私の人生経験に欠かせない、ガールスカウトも、親がくれたチャンス。そしてAO入試に関してはこんな経験がある。実は私は2度目に合格しているのだが、最初の9月入試で不合格であった時、報告に行ったテニス部の顧問の先生が、私にこう言ったのだ。「12月にもう一回あるから受けたらいい。」「先生、でも何かしらその間に成果が無いと受けられないと書いてるんです。」「精神的な成果でもいいんちゃう?先生電話してあげるわ。」そう言ってすぐに大学に電話をしてくれ、こう言った。「良いらしいで!もう一回受けたら?!」「そうします!!!!」あの先生の行動が無いと、今の私は居ない。そして大学でも、当時の教授からのイタリア短期留学の薦めがあった。就職後は、当時のボスが、私が行きたかったイタリア人のボスに手紙を書いてくれた。そして、最初にビザのために語学学校に行く際、直接払う必要があった学費を立て替えしてくれた現地に住む日本人の友人がいた。そういった大人達の助けがあったからこそ、私は今ここにいる。特に、海外で住む経験はとても有意義だと思っているので、私はそれから海外やイタリアで住みたいという若者がいると、そんなに知らない子でも出来る限りのサポートを行うようにしている。だって私もそうしてもらったから。

子供というのは、自分で道を切り開いていくときにポイントで大人たちや仲間からの情報やサポート、助言が必要なのだ。次は私が、子供たちの道を切り開くチャンスを作ってあげたい。




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