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ミステリアスなピアニスト

 ルーマニア人のピアニスト、クララ・ハスキルのドキュメンタリー映画のDVDがスイスから届いた。
このドキュメンタリーは何年か前のクララ・ハスキルコンクールの開催時期に公開され話題になり、楽しみに待っていたのに日本には残念ながら輸入されなかった。私の執念が通じたのか、2020年のコロナ禍自粛期間に、たまたま、本当に偶然Facebook に動画が上がっているのを見つけた。

 スイスのレマン湖に隣接した美しい街の風景、幼少期からの写真、チャップリンの邸宅の庭でご機嫌に散歩する姿がおさめられ、それはクララ・ハスキルのファンにとっては宝石箱のような映画だった。
 繰り返し動画を見るうちに、やはりDVD版を手に入れたいと思い、意を決してスイスのネット販売サイトでDVDを注文したところ、ピッタリ1週間後に丁寧に梱包されて届いた。
 クララ・ハスキルは天才少女として早くから知られていたものの、度重なる不幸や病気、そして二つの世界大戦など多くの障害に阻まれ、なかなか世に出られずにいた。ルーマニアのブカレストに生まれ、幼少時代から周囲を驚かすほどの音楽的才能を見せたため、父親代わりであった叔父がウィーンへ連れ出し、次にパリのコンセルヴァトワールに入学してアルフレッド・コルトーに学んだ。ドイツ軍によるフランス侵攻が始まると、ユダヤ人であったクララはマルセイユへと逃げた。当時フランスはナチスの占領下にあり、「自由地域」と「占領地域」とに分けられ、南部の自由地域は辛うじてユダヤ人に対する迫害を間逃れていたが、それも長くは続かなかった。クララは支援者たちの協力でスイスに入国する書類を手に入れ、ドイツ軍がフランス全土を占領する前日に、ギリギリのタイミングでスイスに辿り着いた。マルセイユにいた時には、視神経に腫瘍が見つかり、支援者達の手配によって極秘でパリから執刀できる医学博士を招き、莫大な手術費用は寄付を募り(ある日スイスのネスレの使いが持参したそうだ)当時最先端であった脳の手術を受けている。この脳の手術は、経験豊富な医師でも成功率が低く、ラヴェルは開頭手術後に亡くなっている。クララの手術が成功したのは奇跡的だった。
 追われるようにスイスのレマン湖畔の街「ヴヴェイ」に移り住んでからは運が向いてきて、初めて自分のアパートやスタインウェイのピアノを手に入れ、友人や支援者、そして他の音楽家達との交流もでき、ようやく充実した生活を送ることができるようになった。ピアニストとしてのキャリア構築にあたっては、友人であったロシエ氏が助言を与えサポートしたお陰もあり、協奏曲、リサイタル、室内楽と多岐に渡って活躍した。
 同じくヴヴェイに住んでいたチャップリンとは違う世界の天才同士、親しく付き合いお互いに尊敬し合う仲だった。チャップリンは「生涯で3人の天才に会った。アインシュタイン、チャーチル、そしてクララ・ハスキルだ」と語っていたと言われている。

 このDVDには特典映像や未公開の録音も含まれ、生前のクララを知るチャップリンの息子さんや、クララのサポートをしたミッシェル・ロシエ氏(ロシエ氏の父はヴヴェイに本社を置くネスレの経営陣で、フランスにいた頃のクララを支援をしている)、ピアニストのマガロフやアルゲリッチ、クララの妹のジャンヌ等の貴重な証言、それにクララ・ハスキルピアノコンクールの審査員や過去の優勝者のインタビューが収録されている。
 内容や感想をここに書こうと思っていたけれど、DVDの本編と特典映像を全て見終わってみると、すっかりその気がなくなってしまった。DVDに収められているクララ・ハスキルの秘密は、伝家の宝刀ではないけれど、広く宣伝して多くに知らせるようなものではない。あの国の言語(つまりフランス語)を話し、当時の歴史や文化を理解する人たちの間で、大切に共有されていくのだろうと思った。繊細で慎み深い性格で、動いている映像はほんの数秒、それもたった2本しか残されていない。雑誌掲載用のプロフィールと写真撮影はキッパリ「お断り~pas pour moi」、音楽だけのために生き、存在そのものが音楽であったと語り継がれるピアニストは、これからも、その素晴らしい音楽だけが残されていく特別な存在なのだ。

ーCDに収録された未公開録音ー
■ショパン ピアノ協奏曲第2番 ジュリーニ指揮 ウィーンフィル
1960年3月15日から18日の間にウィーンで録音
スイス国立録音資料保管所の提供

■リスト 小人の踊り
コロンビアでのテスト録音
録音日は不明
スイス国立録音資料保管所の提供


最上階の部屋のバルコニーにいるクララ・ハスキル



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