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生きる為に恨むことも時と場合によってはありだと思っていること。

きっと遺族にしてみれば本当にやっとという気持ちだった事でしょう。「京アニ放火事件」の犯人が逮捕された。今から本格的な捜査が開始されるらしい。

京都に住んでいるのもあるし、知り合いの知り合いが京アニに勤めていることが分かったりして、あの事件の日はどことなく周囲がばたついた。幸い知り合いの知り合いだったり親族のお世話になった人だったりはその日、あの場所には居ないことが分かって、そんなに近い関係の人達ではないのに安堵したのを覚えている。

その容疑者が一昨日逮捕された。そのニュースが流れた時に「死んだらよかったのに」とか「なんで生かしたんだろう」とか色々な意見が身の回りで飛び交った。

全身大火傷で死亡率95%超えていた彼を懸命に治療し、尽力した医師にはその言葉はどう届いたのだろうかと思うと、なんとなくやるせない気持ちになる。ニュースで見た医師達は彼に罪と向きあって欲しいという気持ちから、必死だったという。医師という職業柄もちろん、死に直面している人を助けないわけにもいかなだろうけど。

「死んだらよかったのに」「なんで生かした」という意見を言った人達は理由を聞くと大体みんな自分たちの税金が使われているからだと言った。自分達の税金を大罪を起こした容疑者をのうのうと生かす為に使って欲しくないと。生きて償えというのも憚られるぐらいの大罪を犯したのだから、死んで償えと。

もちろん、私の税金も使われているわけで、じゃぁ私はどう思うのかとちょっと自分に問いかけてみた。簡単に言うと「生きて遺族や大切な人を亡くした人達に恨まれればいい」だった。私が何故こんな事に思い至ったのか。その理由を自分で考えてみるに、残された人達に「生きて欲しい」と思ったからだ。

今遺族はきっととてつもない悲しみや苦しみ、虚無感、孤独、ありとあらゆる気持ちの中で必死に立て直そうとしているんじゃないかと思う。中にはもう死んでしまいたいと考えている人達ももちろんいると思う。でも死んでしまったら誰が亡くなった人を思い供養し、覚えていてあげられるのだろうか。

私はよく自分に「死んだら終わり」だと思い込ませている節がある。だからこんな事を思ったのかもしれない。「死んだら終わり」でも「死んでしまいたい」。これはとっても辛いし、それを見ている周囲も辛い。なら、私は誰かを「恨んでもいい」とかと思っている。

人を「恨む」と言う念は凄くパワーを使う。別の意味で自分のドロドロした感情に向き合うと言う苦しさも伴う。だけど「恨む」ことは生きていないとできない。じゃぁ、その「恨む」事を「生きる」ことに変えて欲しいと思ったから、「生きて遺族や大切な人を亡くした人達に恨まれる対象になればいい」と言う考えに至ってしまった。

もちろん残された側の人達が「恨んでいる」事なんか容疑者は知らないまま時を過ごすのかもしれない。遺族は容疑者を恨みながら一生を終えるかもしれない。でも今、この時を生きる為に「恨み」を糧に変えて、そして「生きて」この容疑者の最期を見て欲しいと思った。

多分この遺族以外の人達以外、彼らの想像も絶するほどの苦しみ、辛さ、虚無感、悲しみが分からない。今はどうか皆さんが生きてくれる事をただただ祈るしかないと思う。



拙い文章を読んでくだりありがとうございます。細々と描き続けられたらいいなと思っています。