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馬の記述っておかしい。てことは「古事記」やばいwww (追記)

いやまあ、「日本書記」には嘘が多いといわれていましたが、「古事記」も嘘があるようです。
まあ、神武天皇前後って、年代がそもそも怪しいのですが。

もしかして、紀元前660年どころか、もっと後じゃないの? って話がはっきりしてきそう。

日本に馬がはいってきたのは、5世紀くらいらしいです。5-6世紀の間にあった古墳には、馬の埴輪や馬具がどんどん出土してきます。
しかし、どうも箸墓から馬具が出たらしいので、3世紀中旬か後半には遡りました。そして纏向遺跡でも出ています。3世紀ですから、邪馬台国とだいたいもろぶつかりますね。

http://nichiju.lin.gr.jp/mag/05501/08_1.htm

ついでに、纏向遺跡からも馬具がでてました。これは3世紀です。

まあ、なんせ昔でいうと金持ちが買うフェラーリみたいなものなので、「おれ、こんなに金持ちだったんだから、お墓にはいれてね」というと、馬を入れるわけですww 下手したら、まじの死んだ馬とか、殉教的に馬を殺して埋めたとか。ああ、怖い。古代って人権、まじにねーな。あ、動物権もないな。埴輪のほうがかわいいですよね。


で、3世紀には遡ったけれども、さすがに1世紀や紀元前とかには馬は日本ではいない。(いまのところは。)

あれ? 神武天皇がさば読んでいても、紀元前2-3世紀かなと思うのですが、さらにその昔の天照大神の時代だともう100-200年さかのぼって、これが紀元前5-6世紀になるのかな?

しかし、天照大神とスサノオの争いで、スサノオは田んぼの畔をぶっこわし、馬の皮を血だらけで幡屋に放り込んできます。
あれ? 馬いるじゃん? 場所は高天原ってことになりますが。

あれれ??? 3世紀くらいにならないと日本に馬いない。
でも高天原には馬がいた。
しかし、すでにイザナギ、イザナミは日本に来ている。瀬戸内海周辺に住んでいたようですし、スサノオのヤマタノオロチは、鉄資源の戦いともいわれています。
まあ、イザナギイザナミが馬を連れてきた可能性はないでもないが、だったら、その時点で馬の描写があっていいはず。つまりこの夫婦は、船で来たけど、当然古代船で馬を乗せられるほどでかい船は無理ってことですな。
母国にいたとき知っていたかもしれないけど、最低限度の荷物で来たのだろうから、馬は連れてこなかった。

古い馬はこちら。でも、別に鎌倉時代や平安時代に持ち込まれて繁殖した馬もいるから、古代ってわけではないです。

おやおや、国産みした夫婦の子供である天照大神は、どこに住んでいたのでしょうか? しかし、中国や朝鮮半島だと何度も海を渡らないといけないので、大変です。
たぶん高天原は瀬戸内海周辺ではないかなと思います。だって、「海の向こうの外国」でも「空」だし、「畿内や九州からみて、海の向こうだけど日本国内」でも「空」に見えます。まあ、安住の地を求めて、ふらふら、瀬戸内海周辺を移住していたのでしょう。当然、移民なので縄文人に反対されたのかもしれないですね。
スサノオは出雲方面にいっていますし、イザナギは淡路島近くで亡くなったようです。
ちなみに黄泉平坂の比定地は、こちら。島根県ですね。

さて、古事記の成立年代は下記のとおり712年です。馬は貴族・豪族の間ではもっていました。なんせ、乗用車ですから、社用車を上級の兵士に与えるくらいには、大和朝廷、金持ちになっていたのだと思います。

古事記(こじき、ふることふみ、ふることぶみ[1]は、日本日本神話を含む歴史書。現存する日本最古の書物である[2][3]。その序によれば、和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し[4]元明天皇に献上されたことで成立する[5]。上中下の3巻。内容は天地開闢から推古天皇の記事である。

「8年後の養老4年(720年)に編纂された『日本書紀』とともに神代から上古までを記した史書として、近代になって国家の聖典としてみられ[6]、記紀と総称されることもあるが、『古事記』が出雲神話を重視するなど両書の内容には差異もある[7][8]。

和歌の母体である古代歌謡(記紀歌謡)などの民間伝承の歌謡や[9]、古代神話・伝説などの素材や記録を取り込んだ『古事記』は、日本文学の発生や源流を見る上でも重要な素材の宝庫となっている[10][2][11]。」
「成立の経緯を記す序によれば『古事記』は、天武天皇の命で稗田阿礼が「誦習」していた上述の『帝皇日継』と『先代旧辞』を太安万侶が書き記し、編纂したものである。かつて「誦習」は、単に「暗誦」することと考えられていたが、小島憲之(『上代日本文学と中国文学 上』塙書房)や西宮一民(「古事記行文私解」『古事記年報』15)らによって「文字資料の読み方に習熟する行為」であったことが確かめられている。

つまり稗田阿礼が記憶していたことを太安万侶が文書にしたということです。

「『古事記』の序文によれば、天武天皇に舎人として仕えており、28歳のとき、記憶力の良さを見込まれて『帝紀』『旧辞』等の誦習を命ぜられたと記されている。元明天皇の代、詔により太安万侶が阿礼の誦するところを筆録し、『古事記』を編んだ。」

「『斎部氏家牒』では、宇治土公の庶流であり、天鈿女命の末葉であるとされる。

「近年、梅原猛が『古事記』の大胆で無遠慮な書き方や年齢などから、稗田阿礼は藤原不比等の別名ではないかとの説を唱えている。」
「「稗田阿礼」と「太朝臣安万侶」とが現実に『古事記』の編纂で接触していたのであれば、安万侶が阿礼の姓を知らないことはまずありえないこと。また自らは序文のおわりに「正五位上勳五等 太朝臣安萬侶」と書いていることからも不自然である[注釈 2]。
阿礼に如何なる学問の素養があって、それがどのような環境で鍛えられたのかが不明であること。「姓稗田、名阿礼」と言う書き方は漢文での名前表記のやり方であるから構わないという見解もあるが、姓のある日本においてこうした書き方はそぐわない[注釈 3]。
日本の重要文献の編纂関係者で、このような氏名表示をしている例は他にない。」

これはすごい。女性説がありましたが、なんとまあ、藤原不比等説まで出ました! たしかに、昔は3つ名前兵併記があってので、ちょっと変です。

まあ、偉い人がペンネームを使うのはたまにあります。
石原慎太郎氏は、同じ名前のままですけども、政治家と小説家です。

まあ、それはともかく、稗田阿礼がインチキを伝えたということになります。馬がいるんだから、昔も馬いたんだろうというリニアな推測です。
しかも、皮をはぐなんてのは、けっこう残酷行為なので、誇張があるのかもしれないですね。
昔(稗田阿礼から見たら200年ほど前)は日本に馬がいなかったことを知らなかったのでしょう。
今でこそ、インターネットで調べられますが、700年代にそんなことができるはずありません。馬がいたら、ずっと前から馬がいたと勘違いするのは当然のことです。

ストーリーを作るのは、どこかの誰かです。だいたい、勝ち組のストーリーが残りやすいです。
もちろんまれに負け組のことも残りますが。


ついでに、ニギハヤヒ。
これを見るともっと畿内で権力をもっていたのがわかりますね。
ナガスネヒコが負けていなければ、皇室の歴史はもっと古くなって、ニギハヤヒのほうが、日本建国の王様ってことになったのかもですね。
いやー、負けるとあいたたです。とほほ。

ついでに、鉄の最古は、紀元前2-3世紀で、糸島市だ。


この先生、いいと思うんだが。


このサイトの方の経歴が書いてありました。
やだ、私に趣味とか似てるーーwwww


海外経験がないってだけだな。

追記です。
「古事記」の邪馬台国九州派の人が、「天の斑馬」を鹿だと言っています。
ほほーって思いましたが、どこにも大して馬がおらんのであれば、「高天原」については、鹿でもいいかもです。鹿に斑点がある時期は限られるので、年中あるわけでもないし、奈良の鹿を見ていると立派なオスの大人の鹿は、だいたい斑点はないです。小鹿や、若いメスにだけあるのかもです。
だとしたら、若いメス鹿を殺すなんて、まじやばいです。なぜなら、まともな狩人は鹿の数を減らさないために、オスの大人のやや年取った鹿だけを狙います。メスや子供は繁殖確保のため、狙わないのです。
いやー、これは、スサノオってまじひどい奴だな!

追加2

馬の骨の一部が発見された。

「山梨県では『日本書紀』の記載(文字史料)だけではなく、実際の存在する考古遺物として「日本最古級(古墳時代前期後半・4世紀後半・古墳時代前期第3四半世紀)のウマ」が甲府市塩部遺跡の方形周溝墓(溝を四角形に掘り、その内側に土を盛って作られたお墓)から出土しています。」

「遺跡名:塩部(しおべ)遺跡

所在地:山梨県甲府市塩部

時代:弥生時代後期~古墳時代前期、奈良・平安時代

調査機関:山梨県埋蔵文化財センター

報告書:山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第123集塩部遺跡1996年発行」


ちなみに九州の馬関係で最古。


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