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纏向遺跡から、絹製品がでていた。しかし、馬具も出ていたwww

私の推論では、畿内は邪馬台国ではないので、絹製品はでてこないんじゃない?と思っていたのですが、纏向遺跡に出ました(苦笑)。

引用します。
「尾崎花地区の巾着状絹製品きんちゃくじょうきぬせいひん(桜井市大字巻野内)
 纒向遺跡では数少ない絹製品です。纒向遺跡第65次調査で検出された幅約4.8m、深さ1.7mの溝から出土したもので、布留0式期新相から布留1式期古相(3世紀後半から4世紀初め)のものと考えられています。天蚕によって作られた平織りの絹布で何かを包んだ後、撚りの浅い植物質の紐(麻類)で口を結んでいます。大きさは高さ約3.4cm、厚みは2.4cm。近年の調査では巾着は漆によって固められ、中には空洞部分があることが解りましたが、内容物が何であるのかは解っていません。」

でも、すぐその下に、馬具があったわwww
箸中地区の木製輪鐙もくせいわあぶみ(桜井市大字箸中)
 木製輪鐙は箸墓古墳後円部裾で行われた纒向遺跡第109次調査で出土しました。輪鐙が出土したのは幅約10mの箸墓古墳周濠の上層に堆積した、厚さ約20~25㎝の植物層の中層からで、古墳が築造されて暫く後に周濠に投げ込まれたものと考えられます。
 輪鐙はアカガシ亜属の材を用いて作られていますが、輪の下部を欠損しています。現存長は16.3㎝、最大幅10.2㎝、柄の部分は上部がやや開き、他の輪鐙の類例よりは若干長めのものです。柄の長さは11.2㎝、上方幅3.2㎝、下方幅2.6㎝、厚さは1.5㎝程度で、柄の上部には縦1.5㎝、横1㎝の縦長の鐙靼みずお孔があけられていますが、孔の上部から柄の上端にかけては鐙靼によって摩耗したと考えられる幅1㎝程度の摩耗痕が認められ、この鐙が実際に使用されていたものであることを物語っています。
 輪鐙が出土した植物層には土器片と少量の加工木が含まれ、輪鐙の所属時期は層位やこれらの遺物の年代観から布留1式期(4世紀初め)の国内最古の事例と考えられています。」

 へー、木製あぶみって珍しいですね。普通は金属とかの気がしますね。木だと割れそう。練習用とかなのかなあ?

 しかし、たしかに纏向遺跡は3世紀なのですが、ふふふ、邪馬台国には「馬がいなかった」のでーっす!! 牛もいなかったのでーす!

はい、これで畿内はやっぱり邪馬台国でないことがわかりました。まあ、わずか5-10年のすきまの間に、わわーっと馬がいっぱい邪馬台国の最後に増えたというなら別ですが、そんなら、それはそれで記述があると思うのですな。

まあ、時代的には微妙ですが。
ちなみに、卑弥呼の姪の台与は、これで、亡くなった年齢が不明です。

「臺與(台与、とよ)(235年 - 没年不明)」13歳で女王になっているので、248年頃です。70歳80歳と長生きしていたら、4世紀にかかる可能性はあるかもです。


おっと、ついでに、埴輪が墳墓とかで出てきたら、これも邪馬台国ではないのだ。なぜなら、卑弥呼の死の際には、100人が殉葬されたという話だ。
埴輪というのは、要するに人命で殉職するのはかわいそうなので、代わりに埴輪でもって、召使として使ってねという意味合いなのだ。

「坂田地区の埴輪群(桜井市大字巻野内)
 纒向遺跡第42次調査の坂田地区の落ち込みの中からは多くの土器片・埴輪片が出土しています。その内訳は鶏形埴輪1点と大型の朝顔形あさがおがた埴輪が2点、冠帽形かんぼうがた埴輪が1点あり、当然出土するはずの円筒えんとう埴輪が1点も出土していないことは特徴的といえます。このうち鶏形埴輪は最古・最大級の大きさを誇るもので、 冠帽形埴輪については黒塚古墳・勝山古墳出土のU字形鉄製品・木製品との形態的共通点も多く、近年注目を浴びている資料です。共伴土器より埴輪の廃棄時期は布留1式期(4世紀初め)と考えられています。」

廃棄時期ってあるから、ちょっと時間がたってるんでしょうねえ。3世紀後半に作られたのかもしれない。それなら、邪馬台国とタイミングがあっている。

まあ、一般んに、埴輪が古墳にぼんぼこ出てくる場所は、大和朝廷文化の地域であって、邪馬台国文化ではない。
残念ながら、台与が死ぬときにどうしたかはわからない。
邪馬台国自体がそれほど、国力がたもてなくなっていて、しょぼしょぼだった可能性はある。
大きなお墓も作られたかどうかわからない。

というわけで、くどいがやっぱり纏向遺跡は邪馬台国じゃないよねって話で締めます。

いやー、卑弥呼饅頭とか作れないから、残念だなあwww

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