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プレ皇室研究: 古代鏡はいつから?

さて、皇室の先祖について研究していますが、日本の神様のメインは、ご承知のように天照大神です。
そして、天照大神の形見というか、代理のものは「鏡」です。
”古事記”にも、天岩戸で、「天照大神が岩戸に隠れたので、鏡を飾った」という話があって、このときに「榊の木に、鏡と勾玉を吊るした」という描写があります。

では、高天原にいた天照大神ですが、これが日本国内か、海外かはわかりませんが、とりあえず「鏡」が出ているのと、「勾玉」があります。
勾玉は、日本固有のデザインであって、中国にはないので、実はこの高天原はすでに「日本列島」のどこかです。朝鮮半島でも中国大陸でもないです。
それに、親のイザナギイザナミが沼島に到着して、四国を産んだり、本州を産んだりしているのですから、すでに「日本列島」のどこかにいるわけです。
(先日の話だと、それは九州北部で奴国、伊都国あたりであって、奴国→伊都国を天孫降臨としているので、奴国のあったであろう福岡県春日市または福岡県福岡市周辺ということになります。)

では、あいもかわらず、Wikiから鏡のページをリンクします。→いつも安易だwww

「古くは、チャタル・ヒュユク遺跡から、黒曜石を磨いた石板の鏡が出土している[5]。

続いて、金属板を磨いた金属鏡が作られ、多くは青銅などを用いた銅鏡であったが[注釈 1]、後に錫めっきを施されるようになった(表面鏡)。現存する最古の金属鏡は、エジプトの第6王朝(紀元前2800年)の物。以来、銅・錫およびそれらの合金を磨いたもの、および水銀が鏡として用いられる。

東アジアでは、中国の銅鏡史で、約4千年前の「斉家文化期」(新石器時代)が古く、殷・周代を経て、春秋戦国時代になると華南地方を中心に大量に生産・流通することとなる[6]。中国鏡の日本への渡来は弥生時代中期から確認される[7](日本での金属鏡の始まりは前2世紀前後)。日本では、紀元前2世紀から後16世紀(弥生期から桃山期)までの約1800年間を「古鏡の時代」と区分・分類している[8]。」

はい、ずばり日本については、
(A) 金属鏡は前2世紀前後
(B) 中国鏡の日本への渡来は、弥生時代中期 →時代区分だと紀元前1世紀

とまあ、書いてあります。

つまり、神武天皇の紀元前660年というときに、日本には古代鏡はありません。古事記の記載はやはりうそっぱちで、「なんか古く見せかけないと、中国になめられるんで」という、後ろ引っ張り作戦だったわけです。

そして、奴国や伊都国の古い時期がだいたい紀元前、前漢時代までのようです。前漢は紀元前206年 - 8年で、紀元前3世紀初頭ですから、「紀元前2世紀」と10年ほどしか違いがありません。

ちなみに、天孫降臨のときに技術系の神様を連れてきています。次の神様が、鏡作り担当です。

「伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)は日本神話に登場する女神。作鏡連かがみづくりのむらじらの祖神、天糠戸あめのぬかどの子とされている。『古事記』では伊斯許理度売命、『日本書紀』では石凝姥命または石凝戸邊いしこりとべ命と表記されている。」
「岩戸隠れの際に八咫鏡を作った。ちなみに日前神宮・國懸神宮(和歌山市)には八咫鏡に先立って鋳造された鏡である日像鏡ひがたのかがみ・日矛鏡ひぼこのかがみがある。日像鏡は日前神宮の神体、日矛鏡は國懸神宮の神体となっている。

天孫降臨に際して天児屋あめのこやね命・太玉ふとだま命・天宇受売あめのうずめ命・玉祖たまのおや命・伊斯許理度売命ら五伴緒神いつとものおのかみが邇邇芸ににぎ命に随伴している。

記紀などには天糠戸命の子とある。天糠戸命の出自は記紀などには記されていないが、『大倭神社註進状』の裏書の「鏡作神社三座条」によれば大山祇命の子とされる[6]。佐伯有清は、天糠戸命の父神を神産巣日命と推定している[6]。」

おやまあ、八咫鏡が日本初ではないわけです。

「『日本書紀』の岩戸隠れの段の第一の一書には以下の記述がある。

「故即以石凝姥為冶工 採天香山之金以作日矛 又全剝真名鹿之皮以作天羽皮吹 用此奉造之神 是即紀伊國所坐日前神也」

即ち石凝姥を以て冶工たくみとして、天香山あめのかぐやまの金かねを採りて、日矛を作らしむ。又、真名鹿の皮を全剥ぎて、天羽鞴あめのはぶき(鹿の革で作ったふいご)に作る。此を用て造り奉る神は、是即ち紀伊国に所坐す日前神なり
日前・國懸神宮の社伝では、日矛とは矛ではなく日矛鏡という名の鏡であるとし、三種の神器の一つである八咫鏡(伊勢神宮の御神体として奉斎されているとされる)に先立って造られた「日像鏡」と「日矛鏡」の二枚の鏡の一枚と伝えている。つまり、天照大御神の御姿を型取った日像鏡ひがたのかがみと日矛鏡ひぼこのかがみの次に作ったのが、八咫鏡であるという内容である。」

ええー、なんでか突然和歌山が出てきました。
おい、ニニギが天孫降臨したの、九州だっていうてたやん。なんで、それより前に和歌山に鏡があるねん???

しかも、金属は天の香具山。いえ、それ大和三山で奈良県なんだが・・・。
まあ、「天の」とあるので、高天原にも「香久山」っていう山があるのかもしれません。そもそも、これ、阿波風土記と伊予風土記に、「空から落ちた」ってあって、2つに割れて大和の香具山と、徳島に落ちたって話もあるのだ。

・・・これ、鉄隕石とかじゃない? 銅隕石があるのかもしれないが・・・。???
ついでに、鹿はまあ古代だいたいの山にはいたので、問題ありません。もし馬だったら、時代がおかしくなりますが・・・。

天の香具山は、天の金山っていうのの間違いっていう話がでてきた。
まあ、奈良県の香具山は小さい山でそんな鉄や銅が出てくるようには見えないしなあ・・・。まあ、高天原の架空の山なんじゃろう。


このデータベースがなかなか面白い。


まあ、後半ぐずぐずになってしまいましたが、日本の鏡でいちばん古いのは、紀元前2世紀程度であって、紀元前7世紀とかはないことになります。
だって、勾玉とセットで作られているので、あくまで「日本国内」の製造となります。
つまり、天照大神が生きていた時代というのは、がんばっても紀元前206年より、古くはないということです。
(まあ、生まれた年を足して、紀元前226年とかはありうるかもしれないが・・・。あ、紀元前220年生誕にしたら、紀元前660年の3分の1だなあ・・・。)

ついでに、もし天照大神の墓があったとしたら、この調子だと、甕棺に埋葬された可能性が大です。そして、日本国産の鏡が一緒に埋葬されているでしょう。

ついでに、卑弥呼は3世紀半ばに死んでいます。生まれは2世紀後半です。
天照大神は、この調子だと紀元前200年くらいなので、だいたい450年とかそれくらいの差があることになりますから、同一人物であることはもうありえません。

追記
同じ九州で、別一派の吉野ケ里遺跡について、追加で調べました。

「その中の前漢鏡は中国の前漢の時代(紀元前202年~紀元8年)につくられた鏡です。前漢鏡が発見されるのは中期の甕棺で、この頃から北部九州地方でそれまで優勢だった朝鮮半島製の青銅器に代わって中国・前漢の青銅器や鉄器が多く出土するようになります。 これは、前漢の武帝が紀元前108年に朝鮮半島に前漢の出先機関として楽浪郡など三郡を置いたことによると考えられています。これらのことから北部九州で前漢鏡を副葬する甕棺の時代が、だいたい紀元前108年頃より少し新しい時代と判断されてきました。」

鏡以外に、貨幣も年代特定しやすいです。
そういえば、三種の神器が出る墓には、貨幣は出ていません。

「また、北部九州地方を中心に弥生時代の遺跡から出土する「貨泉」も年代を考える上で重要な役割を果たしています。貨泉は前漢と後漢の間にあった新(紀元8年~23年)の時代に鋳造がはじめられた貨幣で、新が15年という短期間で終わったため、一緒に出土した土器などの年代をはかるキーとなります。貨泉はだいたい中期後半の遺跡から多く出土します。

「現在、北は北海道から南は沖縄県まで、全国で約180点が出土しており、その中で弥生時代~古墳時代前期に属するものは、東や山梨県から南は鹿児島県まで、35遺跡91点である(2017年現在)。分布の中心は長崎県から福岡県にあるが、一度に複数枚が出土することはまれで、現状では、岡山県高塚遺跡出土の25枚が最多である。墓の副葬品として出土することは少なく、海辺の集落から出土する傾向にある。

要するに、墓からは出ないということなので、「豪族の宝」という扱いではないようだ。また、「いつ」というのは、移動できるから、はっきりはしない。
しかし、北海道でも出るのはすごいな。

ついでに、吉野ケ里遺跡から出てきたものもチェックしてみましょう。


これで見ると弥生時代前期からですが、出土してくるものは、庶民のものが多いようです。農機具、銅剣などはありますが、三種の神器は出ていませんね。
「王権」とまではいっておらず、「村長」「市長」レベルのリーダという感覚かもです。
「弥生時代前期のうちに、青銅器鋳造が始まったと考えられます。」とあるので青銅器は作っていたようです。実際、銅剣が出土しています。
しかし、九州北部のような、鏡が出ていないのかもです。記載がまったくありません。アクセサリ類は、管玉がみつかっていますが、管玉は作り方がまだ簡単なはずです。
鉄器の記載はありません。

追記です。

鏡を作るのは、鋳型みたいなので形を作って、後で磨きます。
鋳型とか、鏡を作る工場の遺跡とかがあれば、どこが古いかわかります。

重要なので引用します。またしても、奴国で、紀元前2世紀です。上の私の説明と同じ時代です。

福岡県春日市教育委員会は27日、市内の須玖タカウタ遺跡で、国内最古となる紀元前2世紀ごろ(弥生時代中期前半)の青銅鏡鋳型の破片が見つかったと発表した。これまで鏡の国内生産は紀元後1世紀ごろから始まったとされ、それをさかのぼる青銅鏡鋳型の出土例はなかった。専門家は「鏡の製作史を見直す貴重な発見」としている。

遺跡は、中国の歴史書「魏志倭人伝」に登場する奴国の中心部にあり、青銅器生産の一大拠点として知られる。青銅器の中でも鏡は所有者の権威を象徴する希少品で、市教委によると、古い鏡はこれまで朝鮮半島や中国からの渡来品に限られるとみられていた。

市教委によると、見つかった鋳型の破片は石製で、長さ5.1センチ、幅2.5センチ、厚さ2.3センチ。ひもを通すつまみ「鈕(ちゅう)」が鏡の裏面に複数付いた「多鈕鏡」を製作する、国内で初めて見つかったタイプ。

多鈕鏡は国内で12例しか出土しておらず、これまで鋳型も見つかっていなかったため全て朝鮮半島から伝来したと考えられていたが、鋳型が発見されたことで国内で作られた可能性も出てきた。

破片には朝鮮半島製では見られない模様や、鈕部分の一部が残っていた。朝鮮半島でこの時期に作られていた多鈕鏡は精密な線の模様が施された「多鈕細文鏡」だが、見つかった鋳型は線が粗く、朝鮮半島製を模倣したとみられる。

市教委によると、剣や矛などの青銅器は、紀元前3世紀ごろに伝来してまもなく国内生産が始まった。一方、同遺跡の調査に携わった九州考古学会会長の武末純一・福岡大教授らによると、鏡の鋳型は寺徳古墳(福岡県久留米市)などの紀元後1世紀ごろの出土品が最古級とされていた。

遺跡の竪穴住居では昨年、鋳型と同時期の紀元前2世紀ごろの剣や矛など青銅器の鋳型が大量に出土。多鈕鏡の鋳型は近くの墓から見つかったが、石材が似ていることから同時期のものと判断したという。

鋳型は28日から6月3日まで、春日市奴国の丘歴史資料館で一般公開される。〔共同〕」


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