#2 人の悪口を言うこと
ネットなんかやってるやつは大半性格が悪い。
というのはかなりの偏見ではあるが、インプレッション的な話で言うのなら確かに上位に入ってくるのは他人への批判や文句である。
多少過激な言葉の方が注目を集めやすいのは確かなので仕方のないことではあるのだが、果たしてそれで良いのか?
少し前に大炎上したのがYouTuberのフワちゃんの投稿だが、あれはストレートな過激発言で、言われた側は確かに傷つくだろうがあれは悪口ではなく、ただの失言だ。
相手を傷つけるためではなく、ただ自分の中でそれが面白い(あるいは閲覧数が稼げる)言葉としてそれを選んだただの考えなしだ。
ネットにはびこる批判の体感6割は、本人に悪口という意識がない。
ただ本人が見たら確実に傷つく。過激な言葉選びはモヤモヤやイライラを抱えている人間のストレスを具現化しているように見えてある種の爽快感や開放感を感じさせる。あるいは不満すらいえない自分の代弁者として映し出す。
発信した側も過激な発言に共感を得られたことで自分を正当化させることに成功し、よりその承認欲求を満たすために過激化が進んでいく。
一度過激化に成功するとおそらくもう止まれない。引っ込みがつかなくなる。
個人的には過激な言葉自体は非常に大好物ではあるのだが、過激な発言をするユーザーは好きではない。私が過激さを求めているのはあくまで物語としての世界に出会って、現実に求めているわけではないからだ。アクション漫画、ファンタジー小説の中で「死」という字が出てくると非常に心が躍るが、決して現実にそれが侵食することを望まない。
過激な言葉を使えば使うほど私たちの精神性は汚されていく。言葉のナイフとはよく言ったもので手軽に持ててしまうそれは、同じくらい簡単に人を傷つけることが出来てしまう。
漫画やアニメで人の道を踏み外したものをバケモノとして描写するそれと正しく同じようにバケモノへと変貌させてしまう麻薬のようなものでもある。
小学生のころと比べて私はバケモノに近づいてしまったのか。悪意を込めた言葉を使うことに快感を覚えることを正当化していないか。時々ぞっとしてしまうそれが私をどうしたいのか。
自己嫌悪を抱えながら今日も夜は更けていく。
(終)