田舎での記憶は、抽象的で日常的
都会よりも田舎の方が青春な気がする。
僕は24年間のこれまでの人生で、京都・和歌山・東京に住んだことがあるけれど、東京での思い出は、常に何かしらの出来事しか記憶に残っていない。
仕事でこんなことがあった、こんな面白いことがあった、こんなツライことがあった、などなど。
とても具体的なことしか思い出せない。
(ちなみに、僕はエイベックス時代の休日の記憶がほとんどない。休日がなかったという話ではなく、本当に何をしていたのかが思い出せないのだ。たぶんどこにも行かず、家で引きこもってたんだろうけど)
でも、和歌山での思い出は、田舎での思い出は、とても抽象的で日常的だ。
この記事でも書いたみたいに、日々の何気ない瞬間をふと思い出し、少しセンチメンタルになったりする。
毎日歩いた道を、肌に感じた風を、そこにある大切なものを。
24歳の今になっても、もう一度手に入れたいと思ってしまう。
あっちの信号からこっちの信号までは、原付で時速40kmで走ると、ちょうどいい感じに青に変わる、とか。あそこの業務スーパーでは年齢確認をされない、とか。何にもならない日々のことを、今でも鮮明に覚えている。
そういう何気なさの積み重ねが、僕の和歌山での生活だった。
こうして文章であの頃のことを書いていると、
抽象的で日常的な思い出は、とても情緒的なんだと僕は気付く。
具体的でないから、世界の誰かの心には響くような、目には見えない情緒が秘められている。
僕の昔話なんて、世の中のほとんどの人が興味ないだろうけど、
でも田舎で感じた情緒を表現して、そこから何かを共感してくれる人はきっといるはずだ。
僕の文章を読んで
「分かる。あの感じがいいよね」と言ってくれれば、それはとても幸せだと思う。
今日の記事は散文になってしまったから、次の記事ではもっと小説っぽく書こう。
最後に703号室から見る和歌山大学をペタリ
ではまた。
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