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『檸檬先生』著:珠川こおり 読書感想記録

最近全く小説を読んでいなかったのだが,とあるきっかけで小説熱が再燃している.そんな中,表紙に惹かれて買ったのが『檸檬先生』だ.
小説を最後まで読んでさまざまな感情が交錯したため,自分の感情の整理のためにこのnoteを書いた.
あくまでこれは感想文であるため私の主観であり,以下断定口調で書いてある部分があったとしてもそれは"私の中の真実"でありこのnoteの読み手であるあなたの真実であるとはかぎらないことを念頭においてほしい.
もし『檸檬先生』を読んだ同士がいれば,”あなたの中の真実”であるところの感想を是非とも聞かせてほしい.


第一印象とのギャップ

『檸檬先生』は表紙の絵を見てジャケ買いをした.清涼感溢れる表紙には檸檬色の綺麗な文字が踊っていて,檸檬色の瞳をした美しい人が描かれていた.服装から察するに描かれている人物は身体的に女性なのは伝わってきたが,その檸檬色の瞳が利発的に輝いており少年のような顔つきをしており,そのアンバランスさが魅力的に映った記憶がある.

「檸檬」と言われて私が最初に思い浮かべるのは,"清涼感"そのものである.清涼飲料水が似合う風景….緑溢れる芝生と青い空,その中を駆ける白いワンピースに身を包んだ少女,といった情景がパッと思い浮かんだ.
私はそのような"清涼感"に溢れる物語を想像して本を開いたのだ.

しかし読み始めて最初に目に飛び込んできたのは鮮烈な赤色.話が違うじゃないか!と勝手ながら思ってしまったのと同時に,自分が持っていた檸檬色に対するイメージは全て捨て去ったほうがいいという直感を得た.
そしてこの物語の描く"檸檬色"を見届けたいと思い物語を読み進める決意をした.

清涼感溢れる檸檬色を期待させておいて鮮烈な赤.このギャップに私はやられたのだった.


物語全体の流れと各章の印象
〜冬章の異質さ〜

冬章以前と冬章で物語の印象はかなり違うと感じてる.
春〜秋章は小学3年生の少年の様子が事細かに描かれている印象があった.章が進むごとに先生に対する印象はどんどん変化しているように感じる.
以下,各章の軽いまとめと私の抱いた印象をまとめた.

春には少年の現状と先生との出会いが描かれていた.春の先生は,妖精のような何か別の生命体なのではないかという神々しさを感じた.先生は檸檬色であると少年は言っていたが,私はその神々しさゆえなのか先生が透明に見えた.

夏には少年と先生の家庭状況が描かれていた.夏の先生で,初めて先生が大企業の一人っ子であることが明かされた.少年と先生は貧富という点で真逆の立ち位置にいたが,金では解決できない孤独が双方の胸に秘められていた.後の先生の性自認についての節でも触れるが,先生にはどこにも居場所がなかったことが窺い知れる."檸檬先生"という作品の第一印象で得たような清涼感を感じつつも,どこか影を感じる.

秋には少年と先生が文化祭で2人の世界をつくりあげる過程が描かれている.少年は先生との世界を作り上げつつも,その過程で自身の理解者である父の帰還・自己の開示によるクラスメイトとの関係性の変化が訪れ,少年の精神が安定し成長していくように感じる.一方で少年とは対照的に,先生の世界には相変わらず何も変化が訪れていないと察せられる.この章は檸檬先生と少年の今後の人生の暗喩であるように感じる.少年は"普通"に近づいて,先生は"異質"なまま.少年は世界が広いことを知っていて,先生は世界には自分しかいないように錯覚している.今後歩んでいく人生の対比のように感じる.

冬も同じような濃密さでふたりの関係性が描かれ,そしてエピローグで冒頭のシーンに飛ぶのだろう,と予想していた.
しかし,予想は裏切られた.
冬は飛ぶようにすぎていった.前3章の濃密な筆致はどこにいったのかと最初読んだ時は目を疑った.今までは小学3年生の少年の人生を丁寧に描写していたが,この章は異質だ.少年の小学3年生の冬の描写などほとんど描かれていなかった.
そこで私は思った.これは"少年"の人生を四季に表した時,小学3年生の冬以降の人生は全て”冬”だからなのではないか?檸檬先生という人生に大きな影響を与えた人間が不在の時期を"冬"だと表現したのではないだろうか.

それほど少年にとって檸檬先生はかけがえのない"先生"だったのだろう.
冬,寒さに凍える季節.少年の心が檸檬先生に囚われている季節.

檸檬先生のマイノリティ性について

この作品の主題は"マイノリティと孤独"にあるように感じる.そして檸檬先生はそのマイノリティの権化だ.
檸檬先生は少なくとも3つのマイノリティを同時に抱えているように読み取れた.
一つ目のマイノリティは共感覚.二つ目のマイノリティはセクシュアリティ.三つ目のマイノリティは大企業の後継であること.
一つ目のマイノリティである共感覚は少年も持っている.檸檬先生と少年はこの共感覚を通じて知り合い,関係性を深めた.少年はこのマイノリティを克服し,なんなら芸術家である少年の武器として強みとなっている.この作品では共感覚は克服し武器にすることができる個性として描かれているように感じる.

二つ目のマイノリティであるセクシュアリティは,三つ目のマイノリティである大企業の後継と組み合わされることでかなりグロい様相を呈することが容易に想像がつく.
この後,檸檬先生の性自認は男性であることを前提に書く.
実家から言われる"後継が必要で,それが男である必要がある"……これは檸檬先生にとってとてもキツイ言葉だろう.檸檬先生は性自認は男性であるにも関わらず"お前は男ではない"と否定される言葉であるからだ.それにこのままだとお世継ぎを強要されるだろう………檸檬先生の性欲の対象が男性ではなかった場合,さらに最悪だ.檸檬先生自身"恋愛対象は女の子かもしれない"と言っていたのでその可能性は濃厚である.檸檬先生には最悪の未来しか残っていないように見える.

夏にあるおばあさんの家での描写も大変グロい.おばあさんは檸檬先生に服を用意する事で"女性であること"・"理想の女性像"を強要しているのだ.実家では檸檬先生自身を否定され続けて辛いのでおばあさんの家に行っているはずなのに,おばあさんの家では自分の性自認を否定され続ける.
否定されるものが比較的少ないからおばあさんの家に行っているだけであって,完全に檸檬先生そのものを受け入れてくれる場所は檸檬先生の世界には無いのである.
そしてそのグロさを際立たせるのが所々に挿入される髪の毛の長さの描写である.長い髪の毛は美しい女性の象徴である.その象徴を常に強要されていたと考えると胸が苦しくなる.
高校生の檸檬先生の描写に"髪が短くなった"と描いてあり,もしかして実家と和解したか??と邪推してしまった.しかし結末から考えるとそうではなかったようだ.

もし檸檬先生のマイノリティがセクシュアリティと企業の後継であることのいずれかであれば,ここまで事は深刻にならなかっただろう…..企業の後継ではなくセクシャルマイノリティだけであればセクマイ界隈に入って幸せになる未来もあっただろう.見た目が美しいという描写もあった,檸檬先生は女の子にモテるだろう.
セクシャルマイノリティではなく企業の後継であるだけであれば,逆にその立場をポジティブに捉えて共感覚という感性を使って独特な化粧品の新商品を生み出すこともできただろう(会社側が共感覚というマイノリティを受け入れてくれればの話だが).

檸檬先生は三つのマイノリティを抱え,常に孤独だった.
誰も本当に自分を見ていない.自分は透明だと表現するのはひどく頷ける.

檸檬先生の内面の考察

この作品は少年が語り手になっており,檸檬先生の内面は先生自身が表出させた態度と発言から推測することしかできない.
ここから先は,檸檬先生の内面を考察していきたい.

檸檬先生が少年を拒んだ理由

まず初めに浮かぶ無粋な理由として,檸檬先生の恋愛対象が男性ではなかった,というのが挙げられる.
少年が好意を伝えてきたことに対して

「君も、そういうふうに言うんだ。」
先生の唇は歪んで上に三日月を描いていた。
「君も、そういうふうに私を見るんだ。」
(中略)
先生の顔はやっぱり逆光で見えなくて、ただ冷え切った赤い光線だけ私を突き刺す。

檸檬先生

と回答している.完膚なきまでの"NO"の答えだ.おそらく檸檬先生は過去に恋愛感情をぶつけられて嫌な思いをしたことがあるのだろう.
おそらく”女性”として認識されていることをひどく嫌だったのだろう.もしかしたら昔,女性として認識されてセクハラなりレイプなりされた経験があるのではないかと勘繰ってしまった.

しかし,ただ少年が恋愛対象でなかったからだけではない理由がそこにあるように感じる.私は少年に対する歪んだ愛情を檸檬先生から感じた.檸檬先生は秋章にて,少年が自分以外の他者と交流することに不快感を示す描写が多々散りばめられていた.これは冬章に吐露されている通り,"先生と少年だけの世界"に先生が固執しているからだと考えられる.

私には檸檬先生が少年から離れた理由がわからない.恋愛感情(だと先生は受け取った感情)を向けられたから,というのが大きな理由の一つに間違いはないだろう.しかし自分の現状をうまく話せば少年は先生の良き理解者になってくれたのではないだろうか?檸檬先生は何を考えて少年を拒んだのだろう.
冬章で吐露されている通り,檸檬先生は少年の"唯一無二"になりたいと思っていたはずだ.そして少年からの恋愛感情は,少年から先生へ向けられる”唯一無二”の証だと私は考える.なので少年の"唯一無二"の恋愛感情を利用する,という狡い部分を檸檬先生は持ち合わせるタイプの人間だと思っていた.いや,狡いことをしてでも少年の何かしらの唯一無二になりたいと願う精神状態だったんじゃないかと私は思っていた.だから,私は檸檬先生が少年から離れた理由がわからない.

唯一考えられる理由は,少年が先生の唯一ではなくなったから,だろうか.
今までは檸檬先生そのものを見てくれていると思っていた,しかし檸檬先生を女性という型にはめて少年が先生に告白した(と檸檬先生は捉えた),これは檸檬先生を型にはめて彼女のマイノリティと言う名の個性を否定したことになる,有象無象の人々と変わらないことをしてきたから離れた….??
しかし,最期の時に電話した相手は婚約者でなくて少年だ.結局少年は檸檬先生にとって唯一の存在だったのだ.
だから,私は檸檬先生が少年から離れた理由がわからない.

檸檬先生は少年から離れたことを後悔しているのだろうか.
檸檬先生にとって少年はどういう存在だったのだろう,恋愛感情を向けられる前は唯一無二の存在であることには間違いないとして,親愛・友愛ではなく依存もしていたのだろうか.
自分の庇護下に置いておきたいと思う強い執着があったのだろうか.
解説にあった"先生から生徒への加害性"に気づき,加害者側の自分と決別するためだろうか??しかし最期まで檸檬先生は自分が少年の先生でありつづけたし,解説にもある通り檸檬先生に少年との関係性の危うさに関して指摘する大人は存在しないはずだ.
だから,私は檸檬先生が少年から離れた理由がわからない.

大事なことなので3回繰り返して言わせていただいた.

檸檬先生は何を持って最期”しあわせだ”と言ったのか

これもわからない.わからないけれど,檸檬先生は最期に少年に質問をした.

『少年は、今でも私が好き?』
(中略)
『….(略)…..やめとけと言いたいけど、まあいいよ。』

檸檬先生

檸檬先生は少年の自分への好意を確認した,そして好意を拒否するのではなく,あるがままにそこに存在していいと許した.
自分の"唯一の唯一無二"である少年に対して捧げる最期の芸術.透明な檸檬先生の最期の存在証明.それには少年からの好意の確認と好意の存在の許可が必要不可欠だったのではないだろうか.

あれからもう10年だ,もう少年は自分のことが好きではないかもしれない,自分は少年の唯一ではないかもしれない,といった自分は誰の唯一でもないかもしれないという不安から解き放たれ,自己の存在証明と言う名の芸術が完成する喜びゆえに"しあわせだ"と表現したのではないだろうか.

檸檬先生は確かに透明だった

檸檬先生は自分のことを透明だと表現した.性自認のことを受け入れてもらえず,道具としてしか扱われず,自分の肩書きしか見てもらえない.本当の自分は誰も見ていないし受け入れてもらえない.孤独で,それは色にしたら透明だろう.
しかし,透明にも色はある.檸檬先生は檸檬色に透明なのだ.神々しさと捉えどころのなさと少しの清涼感と孤独.それが檸檬色の透明であるところの檸檬先生なのだと私は思う.

イメソン

私は最近イメソンを考えるのがブームなので,色々イメソンを考えてみた.
全部ドンピシャってわけではないけれどなんか似合うなぁって思うのをあげてみました.

檸檬先生と"私"の関係性に関するイメソン
阿吽のビーツ / flower

檸檬先生のイメソン これはMVの主人公が黄色のカッパを着ているからだけかもしれないが.
ハイドアンドシーク / キタニタツヤ

他の解釈もたくさんあると思うのでもし他にイメソンがあれば是非教えてほしい.音楽のレパートリー少ないので教えてくださったら泣いて喜びます.

最後に

ここまで長々と読んでくださってありがとうございました.まさかこんなに長くなるとは思っていなかったです.
これだけ長く書いた甲斐があって,ようやく感情の整理がついたような気がします.
もしよければあなたの感想やあなたの解釈のイメソンが聞けると嬉しいです.
それでは.

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