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『忘却』

抜けきらない、忘れきれない。

失ってから気付くなんて、分かり切った決まり文句。
これほどまで、身体中を痛みつける。
どれだけ望んでも、目の前から消えた。
心にいるなど無い。会話は出来ない。
結局は思い込みで消化するしかない。

あの日、電話で呼ばれた日。
次に見た母の顔はもうこの世の世界を見ることをやめていた。
目を合わせたが、それはただの眼球でしかなかった。

3時間前まで、LINEが来ていた。
ただ、最後の文は途中で途切れていた。

母との最後のやりとり


特に気にする訳でもなく、寝たのかなくらいに思っていた。
それが最後。
文からはこの後、この世とおさばらする者とは微塵も感じなかった。
たがらこそあの瞬間は、無理矢理にでも受け入れたつもりにして、母の管理をするのは僕のみだったので、怒涛の時間を過ごした。

インスピレーションを探す日々。

もう3年の時が流れた。
それでもどうにかこうにかと、現実を受け入れる為に、ありとあらゆる著名人のドキュメンタリーや、哲学、思考に関する映像、記事を漁る毎日。
近くの大型書店の哲学コーナーには何度訪れたか。
もはやそのコーナーにいる時は、心が弱り、何かを欲している合図だった。
それでも、読めど観れど、心の曇りは焼却されることなく、雨を降らせる。
それは冷たく、冷静さを奪っていく。
結局のところ、この痛みは人には分かりきることは出来なく、如何に自分で整理するかになる。

これからの生きる意味。

6年前、精神疾患に倒れた僕は、母の元に戻ってからは、全ての生きる意味は、母のためだったと気が付いた。
でも、よく出来ているのかいないのか、その時はまるで気が付かなかった。
非情という言葉がよく似合う。
さて、生きる意味を無くした僕は、現在も虚無となり、ふわふわしている。
選手だったり、家族だったり、本来意味を成す対象はあるのだが、未だそこにはアジャスト出来ていない。

毎日のように精神が蝕まれる。夢には母も、祖母も、ペットも繰り返し現れる。
眠りが浅いのか、夢と現実との区別が分からなくなり、唯一の回復法の睡眠で疲れてしまう。

日常の仕事には、少なからず影響はある。
しかし、もはや仕事からくるものなのかなんなのか分からない。
ずっとずっと繰り返しだ。
ただただ毎日が過ぎるのを見るだけみたいだ。
ほぼ毎日目にする選手たちには、心から幸せになってほしくて、こんな感情に毎日苛まされることのない人生を生きてほしいから、大根役者の如く、ハイパーテンションを演じる。

少なからず子どもたちの目にハイパーテンションを入れれば、楽しむことへのコンプレックスは幾分か減少するだろう。

これが唯一の生きる意味なのか。

結局人間は人間。

人を変えようと思っても、人はそう簡単には変わらない。
結局、その人の生きてきた数年から何十年という歳月はそんなちょっとやそっとでは変わるほど世の中甘くない。
でも僕はずっとそこにリソースを割いてきた。
少なからず、自分の気力を与えてきた。
なので、もう気力ゲージはほとんど無く感じる。

生きていたら希望や楽しいことは見つかるという言葉は、もう脳内スペースが無くなるくらい何度も突き刺すほどに貰ったが何にも入ってこない。

目の前にいる未来ある人間たちを見守り、見送り、背中を押してあげられれば十分である。

誰がもがき苦しもうとも、最後の真髄は結局自分自身にしか分からない。
自分でそれを受け入れて、少しずつ進むしかない。
ただ、今の自分にはどうにもこうにも気力が出てこない。

人間は人間であり、出来ないことはある。

ミスが8割。

サッカーでの話によく出るワード。
人生も似たようなもの。

しかし実際今生きている日本では、皆と違う部分があると異質とされる。
皆平等であり、同時に同じことを学ぶことが基本とされる。
大学か社会に出る時に、それでも尖った人間は己の道を突き進むが、もれなく異質の存在感はセットになりやすい。

だからこそ、サッカーの現場で、今の時代、より習い事としての認識が強くなる今、週2時間×3・4日の僕らとの時間で人生に何かのきっかけを求めるのかなと強く感じる。

僕も選手たちの人生に片足を突っ込んでいるという責任があるからこそ、とにかく演じてでも本気で振舞う。
ミスが8割が、それが人生だったらそんなもの嫌になってしまう。
でもそれが好きなスポーツならば、何度もトライしてくれる。
だから、2時間の中で、今は気付かなくても、僕のことをウザい奴と思われても、いつかふと気が付いてくれたら良い。

今どう思われようが、人間数年経ったら忘れるものもある。

それよりかは、いい人に思われたいが故に、本当に大変になって気がつく前に、今はしんどいが学ばなければいけないことがあるのならば、伝える。
時代は恐ろしいもので、たった一本の指で掌の画面上で簡単に人を傷つけ、時に殺す。

今の時代は大人がより洞察しなければいけないのは確かだ。
簡単に良いも悪いも演じることが出来る。
そしてそれを魔に受ける人もいる。

ミスが8割のネガティブな時間を繰り返した先の達成感を味わうスポーツには希望はある。
ミスしたものを切り捨てるのではなく、ミスに気が付けたことは、前に進める答えを見つけたようなもの。
選手にはどうそれを楽しむか、繋げるかと説く。

失ってから気がつくとは。

今現在の指導時の振舞いの根源は全て、母とLINEをした3時間後にこの世の母とお別れをした原体験が、ほぼ全てを形成している。
プラス、それ以前の鬱で人間としての機能を失っていた時期と相まって、正直、戦術と技術のみで選手のことをジャッジすることは今の僕がやる立ち位置ではないと感じる。

今の時代他の指導者と価値観の共有は中々難しい。
試合の合間や、ちょっとやそっとでは中々共有は難しいく感じる。

ましてや、ロン毛で、真っ黒な見た目が故にちゃらんぽらん感を感じる方も多いだろが、取り繕うまでもなく、フェイスtoフェイスの機会があるときに共有出来ればよい。

いずれ、灰にでもなった時に気がつくのかもしれないが、いつでも良いからとりあえずは伝えたいことがあればなるだけ、抜かりなく話したい。

忘却出来ないなら出来ないなりに、この感情をオマージュして種を蒔く。

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