見出し画像

『鬼滅の刃』に見る、〈救い〉と〈信頼〉の物語

ニューサポート高校「国語」vol.37(2022年春号)東京書籍

 『〈自己完結社会〉の成立』の導入となる素材のひとつとして、以前blogの方でご紹介させていただいた記事について再掲しておきます(下にリンク先の本文も掲載しています)。

 『鬼滅の刃』(吾峠呼世晴、集英社)は、単なる漫画作品としての魅力を超えて、作品の背景にある「人間が生きること」の本質に関わる思想や世界観、そしてメッセージが、見る者の心を打つ素晴らしい作品だと感じています。

 この作品の主題やメッセージには、筆者が同書で〈役割〉、〈信頼〉、〈許し〉、〈救い〉、〈美〉、そして〈存在の連なり〉といった概念を使って表現しようとしてきたものに通底するものがあり、とても感動的な体験でした。

 ちなみになぜ第5巻かと言いますと、私がこの作品を最後まで読むきっかけにもなった、とても印象的なシーン――累の着物を踏みつけた冨岡に、炭治郎が「足をどけてください」と言う場面(185頁)――がでてくるからです。


『鬼滅の刃』に見る、〈救い〉と〈信頼〉の物語


 『鬼滅の刃』(吾峠呼世晴作、集英社)は、大正時代の日本を舞台に、鬼と呼ばれる異形の敵を、鬼殺隊という剣士たちが成敗していく物語である。世間に遅れること数年、筆者は最近になってこの作品をテレビで視聴した。そしてそれが単純な勧善懲悪の物語ではないこと、大人も引き込まれるその不思議な魅力は、この作品に込められたメッセージにあると感じた。ここではそのことについて書いてみたい。

 まず作品では、敵である鬼たちがとても魅力的に描かれている。鬼たちもかつては人間であり、さまざまな過去を背負っている。見る者は、そこで鬼たちの"人間らしさ"に触れて共感し、愛着がわくこともあるだろう。だが、この作品の本当の味わいはこの先にあるのである。

 例えば鬼たちが鬼になった理由、それはときに貧困、病、幼少期の虐待など、抗えない不幸な身の上だったりする。しかし不幸な素性だけで言えば、それは多くの剣士たちも同じである。つまり作品にとって重要なことは、それぞれの生の不運や悲しみにあって、なぜある人々は鬼となり、またなぜある人々は鬼にならなかったのか、ということなのである。

 例えばある人は、悲運な生い立ちにあっても、自分を見限ることなく、一人の人間として接してくれる誰かとの出会いを通じて剣士となった。だが別の人は、そうした誰かと出会っているにもかかわらず、そのことに気がつかない。なぜ特別であるはずの自分を評価しないのかといって、その人をかえって恨み、傷つけ、鬼となった。

 またある人は、他人が羨むすべてを手にしていながら、天賦の才覚を持つ弟の存在が許せないばかりに、すべてを捨てて鬼となった。さらに別の人は、自らを救った代えがたい人々の命を隣人に奪われ、おのれの運命と無力さを憎み、戦うこと以外に意味を見いだせなくなって鬼となった。

 悔恨、悲哀、憎悪、怯懦、傲慢、憤怒、嫉妬、虚栄。鬼たちはいつだって情念にかき乱されている。可哀想な自分という檻のなかで、いつだって独りで蹲っている。"あの時"のことを、あるいは等身大のおのれの姿を受け入れられず、いつでも何かを否定していなければならないのである。

 筆者はここに、作品の重要なメッセージがあるように思う。それは生きることの〈救い〉についてである。〈救い〉とは、すべてが満たされて幸福であることを意味しない。それは、たとえ苦しみや悲しみが消えなくとも、ありのままの現実を肯定し、心乱されることなく、前に進んでいくことができる心の状態のことだと言える。

 つまり鬼たちは、力を得たにもかかわらず、結局は誰一人として〈救われて〉いないということ、むしろ〈救われて〉いなからこそ、彼らは鬼なのである。もちろん、剣士たちもまた苦しんでいる。闘う相手が違っただけで、限りなく鬼に近い状態の剣士もいる。だが彼らが違うのは、「さまざまな矛盾や葛藤」を抱えながら、それでも何ものかと向き合い、前に進もうとしているところなのである。

 ではなぜ、人との出会いこそが、ときに誰かの道を開く鍵になるのだろうか。筆者はここに〈信頼〉という、作品のもうひとつのメッセージがあるように思う。〈信頼〉とは、盲目になって何かに身を任せることではない。そうではなく、あやふやで、眼で見たり、触って確かめたりすることができない何かを、それでも信じることだと言える。

 努力は、実らないかもしれない。信じた人が、裏切るかもしれない。それでも何かを頼りにして、自らの道を進もうとする心のあり方、それこそが〈信頼〉なのである。鬼たちが信じているのは、何かを打ち負かすことができる強大な力だけで、彼らは結局何ひとつ〈信頼〉してはいない。

 だが剣士たちは、自身の生き方が、より良き生のためのものだったと〈信頼〉する。そしていつの日か、その生を引き継いでくれる誰かが現れるだろうことを〈信頼〉する。また剣士たちは、自らを〈信頼〉してくれた誰かの想い、その誰かの願いを〈信頼〉する。それぞれが与えられた現実のなかで、より良く生きようとして日々戦っていること、それぞれの道を全うしようとした、その人たちの生き方を〈信頼〉する。何かを託し、託されていく、そこにある「繋がり」と「永遠」というものを、彼らは〈信頼〉しているからである。

 作品には、こうして〈救い〉と〈信頼〉をめぐるメッセージが散りばめられている。だからこそ、見る者たちは、何かを背負い、打ちのめされようとも、「今の自分にできる精一杯」で生きようとする、そんな人々の力強さを見て勇気づけられる。と同時に、決して〈救われ〉ることなく、そうした生き方しかできなかった人々の悲しみに触れて、心を打たれるのである。

 私たちは、思い通りにいかない世界を生きているのかもしれない。それでも多くの人たちは、実は得るべきものを得、出会うべきものたちと出会っている。そのことに気がつき、感謝し、大切に育てていけるかどうかはその人自身の問題であること、「幸せかどうかを決めるのは自分自身」であるということを、物語は教えてくれるのである。

 もっとも、俗に言う「セカイ系」と呼ばれる文化の全盛期に育った筆者だからこそ、このメッセージは特別に刺さるのかもしれない。

 筆者たちは、型にはまった世間の"正しさ"が壊れていく姿を見て、絶対的なものなどどこにもないことを思い知った世代である。残酷な世の現実を生き残ろうとして、"事実"にばかりこだわり、信じられるのは自分の力だけだと思い込んできた世代でもある。人の善意や願いを諦めに満ちた目であしらいながら、誰も傷つかないようにと一人で蹲って、それでも"ここではないどこか"を密かに夢見ていた世代である。

 筆者は思った。かなしき鬼たちとは、私たち自身のことでもあったのだと。作品は、「泣きたくなるような優しい音」で語りかける。あなたが背負った苦しみや悲しみは、消えることはないかもしれない。失ったものは、戻らない。それでも前を向いて、あなたの一部となった何ものかを思い、誇り高く、進んで行きなさい、と。


ニューサポート高校「国語」、vol.37(2022年春号)、東京書籍、pp.4-5