反権威主義を貫くために権威を獲得する。

今回の記事では、なぜ僕が、学術論文を書くと決意したかということの理由について書く。

僕は、あるときから、ずっと、反権威主義という立場を貫いている。

反権威主義というのは、権威に依存して物事を判断したり、権威に依存した判断をする人に従ったりしないというスタンスのことをさす。

反権威主義の本質は、権威ではなくて価値を規準とするということにあると、僕は考えている。

つまり、本当に価値のあることをよしとするということこそが、反権威主義の本質だということだ。

言葉を反対にして言い換えるなら、価値のないものに対して、権威が価値があると定めているから価値があるとする判断をしないということだ。

きっと、僕のこのスタンスは、生涯変わらないだろうと思う。

けれども、残念なことに、社会の中では、あらゆることが権威によって価値づけられており、権威が価値があると定めているものが価値があるとする判断が平然となされている。

ペシミスティック(悲観主義的)な言い方をすれば、所詮、世の中は権威主義なのだ。

価値の本質など、社会の中では、何も見えておらず、ただ表面上の権威によって、表面的な価値であらゆるものの価値が測られている。

それでは、価値の本質などには辿り着くことはできないし、誤った理解に行き着くことになる。

けれども、社会というのは、好むと好まざるとに関わらず、そのようにして成り立っている。

これを、僕のルサンチマン(嫉妬)によって歪んだ認識論だというならば、そう思っていただいてもいっこうに構わない。

世の中は価値の本質を見誤った権威主義であると主張することがこの記事の目的ではないからだ。

ここでしているのは、この記事ではそのような認識論を前提にしているという確認だ。

けれども、僕は、所詮、世の中は権威主義なのだということを嫌というほど感じてきた。

僕自身は、自分の社会的地位の価値など気にしたことがないし、社会的地位などで自分の価値の本質は決まらないと考えているけれども、実際問題として、僕に対する社会の評価は、数少ない僕の人格をみてくれる人を除いて、僕の社会的地位によって変わってきた。

一番分かりやすいところで言えば、正規の教員をやっていたときが、『ディアローグ』に一番影響力があった。

もちろん、コロナ禍でオンラインが最も隆盛した時期であったというような事情もあるし、当時は僕自身に勢いがあったということもあるけれども、それを差し引いても、やはり、僕の社会的地位を見られているなという感覚はある。

今の僕が『ディアローグ』立ち上げのときよりも成長していたとしても、社会的地位として正規の教員を超えられない、どころか、社会的地位という視点でみれば当時よりも大きく下がったところにいることで、僕は、何を言っても、正規の教員時代の発言力を超えることができないのだ。(正規の教員とて、それほど大きな発言力があるとは思えないが。)

この例一つとっても、社会は人を社会的地位に従って権威主義的に判断するということを明確に表しているように思う。

きっと、僕のことを権威主義的にみていない人は「そんなことはないよ」と言いたくなるのだろうけれども、それは、あなた個人がそういう見方をしていないというだけで、それは、社会のその他多数も権威主義的にみていないということではない。

僕は、そのように思う。

前置きが長くなってしまったが、本題に入ろう。

僕は、この権威主義的なまなざしを嫌というほどに感じてきた。

だから、このまなざし自体を覆そうと考えてきた。

もし自分が権威になってしまったら、ミイラ取りがミイラになってしまう。

そう思って、自分が権威になることを避けつつ、権威に盲従することを拒否するスタンスを取り続けてきた。

でも、それではダメだ。

それでは、社会は変えられない。

この社会は変えられないという言葉を、もう少し丁寧に言い換えてみるならば、それでは価値を実現することはできない、という言葉になるだろうか。

つまり、価値のあることをしても、権威主義のまなざしのもとでは、それが価値のあることだと認識されることはないのだから、一部の権威主義のまなざしにとらわれていない人に見出されることを除いて、その価値は見出されないのだ。

それでは、価値のあることをしても、いつまで経っても、その価値が十全に実現するということはない。

だとしたら、どうするべきか。

答えは一つだ。

権威主義に染まらずに、権威を獲得し、その権威のもとで権威主義を内側から組み替えること。

これしかない。

つまり、権威を獲得しながらも、徹底的に、価値の本質をみるというスタンスを取り続けること。

これが、反権威主義のとるべき戦略だと、僕は、そのように思う。

じゃあ、僕は、どんな権威を獲得するというのか。

僕の中には、4つの選択肢が浮かんだ。

教育、コミュニティ、音楽、研究。

この4つの中で、教育とコミュニティの世界で権威を獲得するということは、裸の王様になることでしかない。

僕は、そう思う。

なぜなら、教育とコミュニティの世界では、価値の本質と権威が背中合わせになっているからだ。

つまり、価値の本質を取れば、権威を手放すことになり、権威を取れば、価値の本質を手放すことになる。

そういう世界なのだ。

いや、そんなことはないと言いたくなる人もいるだろう。

教育の世界で名をあげている誰々は、価値の本質をとらえているではないかとか、コミュニティの運営に成功している誰々も、価値の本質をとらえているではないかとか、具体的な名前をあげることができるという人もいるだろう。

けれども、それに対して、僕は、はっきりと言おう。

その人たちは、権威を取ることで、教育やコミュニティの価値の本質を手放してしまっている。

一人残らずだ。

少なくとも、僕の目には、そう見える。

僕の知っている限りは、100%そうだ。

それを、僕の目が歪んでいるというのであれば、そう思っていただいてもかまわない。

権威を手にしていない僕がルサンチマンで目が眩んでいるのだという解釈もあるだろう。

でも、僕は、実際に、権威を手にした人間で、教育やコミュニティの価値の本質をつかんでいる人を見たことがない。

周回遅れの論理をあたかも最先端であるかのように振りかざして得意になっていたり、商業主義に走っていたり、数による腐敗を起こしていたり、その失敗の中身はいろいろだが、とにかく、教育やコミュニティの世界で権威を手にしている人たちは、みんなてんでダメだ。

本当に価値のあることをしている人たちは、ひっそりと静かに、誰も知らないところで価値を生み出し続けている。

でも、僕は、それに耐えられない。

だから、違う世界の権威を借用しつつ、その権威に胡座をかくことなく、価値の本質をつかむ。

そこを目指そうと思う。

それに対して、結局、ミイラ取りがミイラになったという人間もいるだろう。

僕も、同じ裸の王様の仲間入りをしたのだと思われることもあるかもしれない。

でも、それでも、そうならずに権威を獲得することで価値の本質を実現するという道を探りたい。

今、すごくそう思っている。

さて、僕の中には、教育、コミュニティ、音楽、研究という4つの選択肢があるといった。

そして、教育とコミュニティにおいては、権威をつかもうとすると価値の本質を損なうことになるといった。

だとすれば、僕の中に残るのは、音楽と研究しかない。

そう考えたときに、僕は、音楽の世界で権威を獲得できるとは思えない。

それは、3つの意味でそうだ。

一つに、実力が足りない。

音楽の価値はそれぞれだが、音楽の道で権威を獲得するには、音楽的技術が必要だ。

ただ、はっきり言って、技術面で、僕は権威を獲得できるほど秀でているわけではない。

二つに、コネクションがない。

音楽の世界で権威を獲得できるようなコネクションが、僕にはない。

だから、仮に僕に何か光るものがあったとしても、そこから権威を獲得できる筋道がない。

三つに、その気がない。

これは、元も子もないことだが、僕は、音楽の世界で何かの権威になろうと、そもそも思っていない。

僕にとって、音楽はあくまで手段であって、音楽自体に何か価値があるとは思っていないし、音楽の世界で認められて何者かになりたいなどとは微塵も思っていない。

ただ、音楽を通して価値を生み出したり届けたりすることができる可能性があると思っているから、僕は音楽をしている。

そういうわけで、僕は、音楽で権威を獲得しようとはしていない。

となると、残るは研究ということになる。

僕は、これまで、ずっと、研究の世界で権威を獲得するということがすごく嫌だった。

教員時代に、教員が研究者の権威にひれ伏す情けない姿を、嫌というほどみてきたからだ。

ダブルスタンダードの破綻した論理で教員の実践を一刀両断していい気になっている研究者をみたときには、本当にどうしようもない奴だと思った。

僕は、その一刀両断された教員を擁護する反論をしたが、その声はかき消されてしまった。

反対に、教員側で、相手が大学のポストに就いているというだけでヘコヘコして盲従してしまうというどうしようもない教員も、たくさんみてきた。

そういうのをみるたびに、教員というのは終わってると思った。

もちろん、そんな教員ばかりではないということも知っている。

「これだから、教員は…」というような言い方をするのは、主語を大きくし過ぎだということは分かっている。

だから、すべての教員が終わっているとは言わない。

けれども、圧倒的に多くの人が大学のポストに就く人にヘコヘコする姿をみてきた。

僕は、教員時代は、ずっと、自分はそういう人間にはなるまいと、そう思いながら教員をやっていた。

だから、研究業績がなくても、大学のポストに就かなくても、ただ聡明であればいい。

具体的に言葉にはしてこなかった気がするけれども、漠然と、そんなことを思っていた。

でも、それではダメだ。

権威主義のまなざしの世界では、形として無いものは、何も無いのと同じだからだ。

だから、権威主義のまなざしを愚かだと判断するとしても、現実として権威主義のまなざしによって構成されている社会の中で、価値の本質を貫くためには、権威を獲得しなければならない。

つまり、価値の本質を貫くための力としての権威を獲得するためには、研究業績をあげたり、大学のポストに就いたりしなければならないということだ。

僕にとっては、さしあたり、研究業績をあげるということに焦点を絞っていこうと考えている。

そして、ゆくゆくは、それを博論執筆につなげていく。

ただ、一つ忘れるべきではないのは、権威の衣を纏うことによって、その権威に胡座をかくようなことはするなということだ。

研究業績や博論執筆は、単なる名刺に過ぎない。

名刺をつくったところで、その名刺自体が何かをしてくれるわけではない。

名刺は、ただの紙だ。

大切なのは、名刺を持つその人が何をするかだ。

でも、その何かをするために、名刺があることで、自由に何かをできるのなら、名刺をつくりにいくことにだって本気になる。

そういう想いで、今、権威を獲得するための論文執筆に気持ちが向いている。

これまで、僕は、学部と修士で、価値の実現のための研究というスタンスを取れという指導を受けてきたこともあって、権威の獲得のための論文執筆ということに乗り出すことへ踏み出せなかった。

けれども、冷静に考えてみれば、僕にとっての権威の獲得のための論文執筆は、最終的には価値の実現があるわけだから、結局、価値の実現のための研究というスタンスを貫いていることになる。

きっと、こんな論理は、指導教諭には通じないだろうけれども、それはもはやここではどうでもいい。

大切なのは、僕自身が、僕の筋を通すことだ。

そういうわけで、最終的な価値の実現に向けて、僕は、権威の獲得のための論文執筆に踏み出す。

とはいえ、すべての動機が権威の獲得にあるわけではない。

論文執筆は、もともと、純粋に僕のやりたいことだ。

文献を読んで、考えて、文章にまとめる、という作業は、それ自体が楽しい。

そして、僕にはその能力がある。

いや、そう言うと自信過剰に聞こえるかもしれないけれども、これは相対的な話だ。

きっと、音楽よりも、研究の方が、その分野で能力の高い人と肩を並べてやっていく可能性が高いという意味で、僕には、研究の能力がある。

そういうことを言っている。

だから、僕は、これから、研究論文執筆に向けて、本気で取り組んでいく。

研究論文執筆のために、具体的にやることも考えている。

それは、100回投稿で論文執筆チャレンジだ。

論文執筆にまつわることを100回投稿して、100回目の投稿で論文を完成させる。

そういうチャレンジをしようと思う。

ただ、僕には、他の活動の投稿もあるから、論文執筆の投稿を毎日するわけではない。

他の投稿をする日は、論文執筆の投稿はお休みだ。

でも、ずっと休み続けて自然消滅させるようなことはしない。

必ず、100回投稿にまで辿り着き、論文を執筆してみせる。

僕のその決意は、固い。

そういうわけで、反権威主義を貫くために権威を獲得する、そのために論文を執筆する。

そういうチャレンジをしていきたい。

楽しんでいこう!

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