子ども理解とは何かーー学力至上主義と指導至上主義を超えてーー

不登校の増加という現状

2018年年度(平成30年度)の文科省による調査によれば、日本全国の不登校数は16万4528人であるという。[文科省ホームページ(https://www.mext.go.jp/content/20191217_mxt_syoto02-000003300_8.pdf)]2017年度(平成29年度)の文科省の調査では、14万4031人であったことを考えると[2019年1月5日 産経新聞デジタル版
https://www.sankei.com/smp/life/news/190105/lif1901050034-s1.html)]、1年間で2万497人増加したことになる。
産経新聞の記事によれば、2017年度(平成29年度)の段階で、14万4031人という不登校者の数が過去最多であった[同上記事]ということであるから、2018年度(平成30年度)は、不登校者の過去最多人数をさらに大幅に更新したということになる。その後、2019年度(平成31[令和元]年度)以降の不登校者数については公表されていないため、人数の増減について正確なことは分からないが、2017年度(平成29年度)から2018年度(平成30年度)の増加数から考えると、さらに増えているのではないかと予測される。
産経新聞では、2017年度(平成29年度)に不登校者数が過去最多になったことの理由として、「フリースクールなど『学校以外の場』の重要性を認める法制度により、『無理に学校へ行かなくてもいい』という考え方が浸透したことが背景にある」[同上記事]と説明していた。つまり、学校に行きたくないと思っているが、それでも学校に行かなければいけないと考えて、苦しみながら無理に学校に通っていた子たちやその保護者が、学校は無理に行くところではないと認識して学校に行かないという選択をし始めたことが、不登校者数の増加につながったのではないかと指摘しているのだ。
産経新聞の説明は、学校が子どもたちにとってよりしんどい場所になってきているということを隠蔽してしまう可能性を含んでおり、その説明を妥当なものとして受け入れて良いかどうかについては議論の余地があるだろう。しかし、その説明が妥当であろうとなかろうと、学校という場所が、子どもや保護者にとって、魅力的ではない場所になっていることはたしかであると考えられる。大田堯は、すでに1980年代に、『なぜ学校へ行くのか』[岩波書店、1984年]の中で、学校に行かなくてもよいと言えば学校に行かないという子どもがたくさんいるのではないかと指摘していた。学校に行くのがしんどい子どもたちが、学校に行かなくてもよいという考え方を受け入れて不登校になっていったと考えるなら、大田が想定したことがまさに現実になったということができそうである。また、大田の指摘からは、学校に行くのがしんどいという子どもがたくさんいるということがすでに1980年代から実感されていたということが分かる。子どもにとって学校がしんどい場所になっているということは、今になって発生したことではなく、すでに少なくとも30年以上前から問題としてとらえられていたことなのである。

なぜ学校に行くのがしんどいのか
ーー新自由主義と新国家主義による説明ーー

では、なぜ子どもたちは、学校に行くのがしんどいのか。その要因としてこれまで多くの言説の中で指摘されてきたのは、学力で子どもを選別することによって競争を煽る教育システムの問題である。つまり、より高い学力をつければつけるほどに、より良い学校に進学し、より良い仕事に就くことができるという教育システムがあり、そのことが、子どもたちを学力を身につけることを至上目的とした競争に駆り立てているというのである。このように、子どもが学力を身につけることを学校教育の至上目的とする立場を、学力至上主義と呼ぶこととする。
これまで、学力至上主義は、現行の教育システムの中で苦しむ子どもの姿を説明する言説として有力なものとされてきた。そして、現在の教育の置かれている状況から考えても、今なお有効な言説であると考えられる。小泉政権時代から続く新自由主義的な教育改革(自由な選択と競争にもとづいて教育の質を改善しようとする考え方にもとづいた教育システムの改革)は、学力至上主義をさらに強化し、そこに適応できない子どもたちに対して、以前にも増してしんどい状況を生み出していると考えられる。
しかしながら、本当に子どもたちは、新自由主義的な教育改革が加速させた学力至上主義によってのみ苦しめられているのだろうか。このように問うと、子どもたちを苦しめているのは、新自由主義的な教育改革だけでなく、新国家主義的な教育改革との両輪で動いている教育行政だという指摘を受けるかもしれない。新自由主義的な教育改革によって荒れた子どもたちの心情と行動を抑制するために、国家が教育勅語に示される道徳観にもとづいて子どもたちの規律意識を高めようとしていると言われている。価値に関わる問題に国家が介入してはならないとする主張は、1950年代から教育運動の中でなされてきたが、現在の新国家主義的な教育改革に対しても、同様の批判が成立すると考えられる。

なぜ学校に行くのがしんどいのか
ーー指導至上主義による説明ーー

しかし、実際の学校教育現場での子どもたちの苦しみは、新自由主義的で新国家主義的な教育改革による教育システムによってのみ説明することはできないのではないだろうか。なぜなら、子どもは、場を規定しているシステムによってのみ自らのあり方を判断しているのではないからである。子どもは、学校では、教師や友だちとの日々のやりとりの中で生きている。そのように考えると、日々のやりとりの中に潜んでいる問題を明らかにしなければ、子どもたちの苦しみの内実には迫れないのではないか。当然、教育システムは、日々のやりとり自体に大きな影響を与えている。そのため、新自由主義的で新国家主義的な教育改革が、子どもたちの苦しみの要因として働いてしまっている面は少なくないだろう。しかしながら、もっと直接的に子どもたちの苦しみに影響を与えているものがあるのではないか。
指導によって子どもに何かの力をつけさせることを至上命題として据える立場を、指導至上主義と呼ぶこととする。学力至上主義が、学力を身につけさせるという限定された至上目的をもっているのに対して、指導至上主義は、もっと広範に、力を身につけさせるということを至上目的とする。たとえば、ここで身につけるものとして想定されているものには、学力の基礎として位置づけられる文字を書く力や計算する力だけでなく、自分で身の回りの整理整頓をする力や食事の準備をさっと済ませる力のような日常生活の力も含まれる。ここでこの立場にとって重要なのは、その力が指導によって身につけられることである。つまり、この立場からすると、教師の指導を通して子どもが力を身につけるということが大切なのである。
教師は、学校で子どもに長時間指導をしている。そのため、その中で、子どもに何かしらの力をつけさせたいと思うのは、教師の倫理観として真っ当なものであると考えられる。そのため、教師が自らの指導によって子どもに何かしらの力をつけさせたいと考えること自体は、とても良いことであるように思われる。しかしながら、そのことを至上目的としてしまうと問題が生まれてくる。何かしらの力を身につけさせることが至上目的になってしまうと、往々にして、教師は、自分が子どもに力をつけさせられない事をが許せなくなり、何としても子どもに自分がつけさせたい力をつけさせるために、教師の価値観を押し付けてしまったり、無理を強いることになってしまったりする。
子どもたちにとって、本当にしんどいのは、学力至上主義よりも、指導至上主義なのではないか。今回の記事では、このように問いたい。なぜかというと、学力至上主義の教育は、学力という評価規準を子ども自身が受け入れなければ、たとえ学力が身につけられなくても、苦しむ必要はないという点で、子どもに逃げ道があるが、指導至上主義の教育は、教師と子どもの人間関係の中で、否が応でも、価値観を押し付けられ、苦しめられることになるという点で、子どもに逃げ道がないからだ。
学校教育においては、学力至上主義よりもさらに深いところに、指導至上主義の価値観が根差しているように思われる。なぜなら、教師に学校の目的を問うたときに、学力を身につけさせることだという解答に対しては一部の教師から異論が出そうだが、指導をすることだという解答に対しては、学力を身につけさせることだという解答よりも、圧倒的に異論が少なさそうだからである。学力保障については、学校教育の目的の一つではあるが、それは全てではないと考える人もいるだろう。集団生活の仕方や関係性づくりのあり方を身につけることを重視する人もいるのだ。しかし、そういった学校で提供されるコンテンツ全般を込みで、それらの指導をすることが目的だと言えば、学校教育の目的を網羅的に言い尽くしたように思えてしまう。このように考えると、学校教育により深く根を下ろしているのは指導至上主義であるように思われる。

子ども理解に徹する立場に立つ
ーー学力至上主義と指導至上主義を超えてーー

では、指導至上主義の何が問題なのか。学校とは、教師が子どもに指導をする場所ではないのか。この問いに対して、勇気をもってノーと答える立場こそが、子ども理解に徹する立場であると私は考える。子どものあり方を受け止めつつ、そこに教師の価値観をぶつけ、そこで生まれる化学反応を楽しむ。子ども理解に徹する立場の教師は、そのような関わり方をする。教師が子どもを指導をするのではなく、共にいることで生まれる反応を楽しむのである。指導という言葉が、指導の受け手の色に対して上から違う色を重ねるようなイメージがあるのに対して、生まれる反応を楽しむという言葉には、混ざったり混ざらなかったりしながら、いくつもの色が同じ場所に共存しているイメージがある。いくつもの色が、混ざり合ったり、混ざり合わなかったりしながら同じ場所に共存する。それが、子ども理解に徹する立場の教師が教室に作り出す空間のイメージなのである。もう少し具体的にいえば、子どもの価値観や表現を認めた上で、それを教師の価値観に即して生かしていくこと。そして、その結果として、その子どものよさを伸ばしていくこと。これが教育の目的であるように思う。
学力至上主義と指導至上主義を超えて、子ども理解に徹する立場に立つことが、16万人を超える不登校児を抱える日本の学校教育には求められているのではないだろうか。

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