競争的価値観からの脱却の構造分析ーー私の勉強経験と轟ちゃんの整形を通してーー

競争的価値観を転覆すること。
これは、私が幼少期からずっと自らに課している課題であった。
幼少期の私は、勉強ができなかった。
しかし、勉強ができないことにコンプレックスを抱きつつ、そもそも勉強ができることに価値はあるのかということに疑問を抱いていた。
自分は、自分が勉強ができるようになって、そもそも勉強ができることに価値はないということを証明しようと考えた。
これが自分にとっての競争的価値観の転覆だった。
最近、整形アイドル轟ちゃんの著作を読んで、彼女の整形は、まさに、私が勉強において行った競争的価値観の転覆と同じ構造であると感じた。
そのことがなかなか言語化できずにいたのだが、少し言葉にまとまってきたので、書いてみようと思う。
つまり、どういうことか。
少し詳しく説明してみよう。

幼少期の私は、勉強ができなかった。
そして、自分ではあまり認めていなかったが、勉強ができないことにコンプレックスを抱いていた。
一方で、そもそも、本当に勉強ができることに意味はあるのかと、受験学力を身につけること自体の価値に対して懐疑的でもあった。
まず、ここで確認しておきたいのは、自分は勉強ができないということにコンプレックスを抱くということと、受験学力を身につけること自体の価値に対して懐疑的であることは、全く次元の異なることだということである。
なぜなら、自分は勉強ができないということにコンプレックスを抱くということは、受験学力を身につけること自体の価値を肯定した上で、自分は受験学力を身につけることができていないことに対して、劣等感を感じているということだからである。
これに対して、受験学力を身につけること自体の価値に対して懐疑的であるということは、そもそも、受験学力を身につけること自体の価値を肯定するという共通の土俵の上に立っていない。受験学力という尺度で図られても、自分が受験学力に価値を置いていないから、ちっとも劣等感を抱かなくてよいということになる。
上記の話を要約的に図式化すると、以下のように、勉強ができないのA,Bというタイプに分類できる。

A:勉強ができることに価値を置いているがゆえに、コンプレックスを抱いている。
B:勉強ができることに価値を置いていないがゆえに、コンプレックスを抱いていない。

ところが、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェは、勉強ができないB(勉強ができることに価値を置いていないがゆえに、コンプレックスを抱いていない。)とは、Aが勉強ができることへのルサンチマン(嫉妬)を募らせた結果生じたものだという。(と、永井均は、『これがニーチェだ』の中で紹介している。永井均『これがニーチェだ』講談社、1998年。)
つまり、本当は、勉強ができることに価値を置いているAが、コンプレックスを抱いているみじめな自分のみじめさを隠すために、自分はそもそも勉強ができることに価値を置いていないというBの立場をとるようになるというのである。
実際に、そのような心理的な移行があるのかどうか、そして、どのようにして移行が行われるのかということまでは、はっきりと示すことはできず、この説明をすべてのコンプレックスに対して当てはめることができるかどうかは分からない。
しかし、少なくとも、勉強ができない人は、たとえどんなに本人がそもそも勉強ができることに価値を置いていないと主張しても、それは、コンプレックスを抱いている自分のみじめさを隠しているに過ぎないとみなされ得るということはいえる。
では、この勉強ができない人が、そもそも勉強ができることに価値を置いていないというBの立場をとることができるようになるためには、どうすればいいのか。
そのために必要なのは、結局、勉強ができるようになることである。
なぜなら、結局、自分が勉強ができることに価値を置いていようがいまいが、自分が勉強ができるようになってしまえば、そもそも、コンプレックスを抱かなければいけない要因は消失し、勉強ができなくてコンプレックスを抱いているAなのか、勉強ができなくてもコンプレックスを抱いているBなのかと問われること自体がなくなるからである。
勉強ができるようになれば、価値の図式は以下のように構造転換する。

C:勉強ができて、勉強ができることに価値を置いている。
D:勉強ができるが、勉強ができることに価値を置いていない。

つまり、勉強ができることに価値を置いていようがいまいが、コンプレックスを抱かなければいけないネガティブな要因がなくなっているので、CでもDでも、どちらでもよくなるのである。
しかしながら、かつて勉強ができずコンプレックスを抱いていたAであるにもかかわらず、自分のみじめさを隠すためにBへと移行した者にとっては、勉強ができるようになった自分がCなのかDなのかは、決定的に重要である。
なぜなら、勉強ができるようになったときに、勉強ができることに価値を置いているCになってしまっては、かつてのそもそも勉強ができることに価値を置いていないとしていたBのときの自分との整合性がつかなくなってしまうからである。
そのため、たとえ、勉強ができないことにコンプレックスを抱くAが、自分のみじめさを隠すためにBへと転向していたとしても、他者からコンプレックスを抱いているとみなされることから脱却するために勉強ができるようになったときには、勉強ができるが、勉強ができることに価値を置いていないDに是非ともならなければいけないのである。
しかし、勉強ができるが、勉強ができることに価値を置いていないとするDの立場をとることの意味は、かつてコンプレックスを抱いていた自分を価値論的に救済するためということに留まらない。
この立場をとることによって、そもそも、勉強ができるかできないかという尺度で人間の価値を測る思想自体に対して異議申し立てが可能になる。
自分が勉強ができないままでは、勉強ができることにそもそも価値がないと言っても、それは勉強ができないお前には分からない価値なのだという反論を受けてしまうだろう。
私の場合、中堅国立大学の埼玉大学の一般入試に合格した程度であるから、全国的に見ればそれほど勉強ができるというわけではないが、それでも、勉強ができなくてコンプレックスを抱えつつもそれを隠すようにしていた幼少期よりは、ある程度は勉強ができるようになり、勉強ができる人の立場で大学まで進学してきた人たちとともに過ごす中で、勉強ができる人の景色をある程度は見ることができた。
埼玉大学をどれほど勉強ができるとみなすかということについてはさておき、勉強ができる人としての立場を獲得すれば、勉強ができることに価値はないという主張を、説得力をもって主張することができるようになる。
なぜなら、勉強ができるということがどういうことかが分かった上で、それでも勉強ができることには意味がなかったと判断したということになるからである。
勉強ができずコンプレックスを抱いていたAの立場の自分のルサンチマン(嫉妬)は、勉強ができるが勉強ができることに価値を置かないとするDの立場をとり、そもそも勉強ができることなどには価値がないと自分の中で実証することによってこそ晴らされる。
しかし、これには、異なる見方もできる。すべてをルサンチマン(嫉妬)によって説明すれば、このようにも説明できるが、一方で、AからDへと移行することによって、本当に勉強ができるかできないかということなどはどうでもよい価値のない価値尺度なのだと認識する立場に立つことができたと考えることもできる。
たとえば、勉強ができずコンプレックスを抱いているAの立場の人が、一生懸命勉強をして、勉強ができて、勉強ができることに価値を置いているCの人になったとして、その人は、他人を見るときに、自分は勉強ができることに価値を置いているから、勉強ができるかできないかという観点で評価するということが起こり得る。
それは、勉強ができるかできないかという尺度で人を見る競争的価値観にとらわれているともいえる。
もちろん、競争的価値観をよしとする立場からすれば、とらわれているという表現は適切ではない。競争的価値観で生きているといった方が価値中立的な言い方だろう。
しかし、競争的価値観をよしとしない立場からすれば、競争的価値観で人を評価する人は、まだ競争的価値観から脱却できていない段階であるとみなすことになる。
このような視点で、勉強ができるが勉強ができることに価値を置かないDの立場を再評価してみると、それは、競争的価値観から脱却した次の段階に到達したととらえられる。
私の場合は、このような過程を経て、勉強ができるかできないかに価値があるのではなく、その人にとってどのような意味のある勉強(学び)をするかということが本当に価値のあることだという考え方へとたどり着いた。
ここまでの私の経験の構造をまとめよう。

勉強ができず、コンプレックスを抱いていたAの私は、自分のみじめさを隠すために、そもそも勉強ができることに価値はないとするBの立場をとっていた。(しかし、この時点でも、そもそも、本当に意味のある勉強とは、自分にとって意味があると思えることを学ぶことであって、受験学力をつけるための勉強には本当は意味がないということを朧げには考えていたように思う。)
しかし、そもそも勉強ができることに意味はないということを自分の中で証明するべくして、勉強し、勉強ができるようになった。そして、勉強ができるが、勉強ができることに価値を置かないという立場に到達した。
それは、勉強ができないことへのコンプレックスを晴らす方法であったともとらえられるが、一方で、勉強ができるかできないかという尺度で人を評価する競争的価値観を転覆して、本来意味のある学びとは、その人にとって意味のあることを学ぶことだとする考え方を打ち立てたととらえることもできるということだった。

これが、私の勉強経験による競争的価値観の転覆であった。
こうして、私は、競争的価値観から脱却し、自分にとって価値のある学びを獲得したのである。

さて、これと全く同じ構造で、容姿の問題において、競争的価値観からの脱却に成功したのが、整形アイドル轟ちゃんである。(整形アイドル轟ちゃん『可愛い戦争から離脱します』幻冬社、2019年。)
整形アイドル轟ちゃん(以下、轟ちゃんと表記する。)は、かつて、幼少期に友人からブスと呼ばれ、コンプレックスを抱くが、1000万円のお金を整形に注ぎ込んで、なりたい自分の容姿を獲得し、現在は、YouTuberとして、メイク動画などを紹介している。
興味深いのは、整形をしてなりたい自分の容姿を手に入れた彼女が、人をかわいさという尺度で測って序列づけることをやめようと提案していることである。
彼女のたどった過程を、先のA,B,C,Dの価値構造で説明してみよう。
容姿について、何をもって良いとみなすかというのは人によってそれぞれであるため、容易に容姿の良し悪しなど決めることはできないものだが、仮にここでは、容姿の良し悪しを判断できると仮定しよう。
すると、容姿がよくない人は、価値論において、二つの立場に分けられる。それは、次のAとBである。

A:容姿がよいことに価値を置いているがゆえに、コンプレックスを抱いている。
B:容姿がよいことに価値を置いていないがゆえに、コンプレックスを抱いていない。

轟ちゃんが著作を書くまでの幼少期に自己の価値観にどのような揺らぎがあったのかということについては定かではないが、幼少期、自分の容姿にコンプレックスを抱いていたと書いている著書の説明を読む限りにおいては、轟ちゃんは、容姿がよいことに価値を置いているがゆえにコンプレックスを抱いているAだった。
轟ちゃんは、自分の容姿にコンプレックスを抱いていたため、一生懸命お金を貯めて、それを整形に注ぎ込んだ。
そこには涙ぐましい努力があり、私にはその部分が読み応えのあるところだったのだが、その点については実際の著作を読んでいただくこととして、とにかく、彼女は、よい容姿を手に入れた。
よい容姿を手に入れると、勉強のときと同様に、価値構造が以下のように構造転換する。

C:容姿がよくて、容姿がよいことに価値を置いている。
D:容姿がよいが、容姿がよいことに価値を置いていない。

自分の容姿にコンプレックスを抱いていた轟ちゃんが、容姿がよいことに価値を置かないDになる必然性はなく、轟ちゃんが容姿がよいことに価値を置くCの立場をとり、容姿が悪いと思える人をあざけるような人になってもおかしくはない。
つまり、勉強でいえば、かつては勉強ができなくてコンプレックスを抱えていた自分が勉強ができるようになったことをいいことに、勉強ができない人をバカにするような人になるというようなことだ。
しかし、轟ちゃんは、そうはならなかった。
彼女は、容姿のことでいじめられた自身の経験をふまえて、容姿の良し悪しという価値を超克する道を選んだのだ。
轟ちゃんは、かつて整形を終えて、かつて、容姿のことをあんなに気にしていた自分に対して、そんな思い込みにとらわれなくてもいいんだよと言ってあげたいと言っている。
しかし、一方で、整形を経ることがなければ、そのような境地に立つことはできなかったとも言っている。
つまり、容姿がよい自分を獲得することによってしか、容姿の良し悪しで判断するという価値観を転覆し、そこから脱却することができなかったのである。
言い換えれば、整形によってよい容姿を手に入れることによって、価値構造が構造転換し、競争的価値観から脱却することができるようになったのである。
こうして、彼女は、容姿の良し悪しという尺度で人を評価する競争的価値観から脱却し、自分にとって良いと思える自分であるかどうかという次の価値の段階へと進んだ。
競争的価値観から脱却して、自分らしさを獲得したのである。
轟ちゃんの経験の構造をまとめよう。

自分の容姿にコンプレックスを抱いていたAの轟ちゃんは、整形をしてよい容姿を手に入れた。(実際のところどうであったかは定かではないが、少なくとも著書の情報では、自分のみじめさを隠すために容姿のよさに価値を置かないBへと移行していないという点で、私の勉強経験とは途中でたどった過程が異なる。)
よい容姿を手に入れた轟ちゃんは、かつての容姿のことでいじめられた経験をもとに、容姿の良し悪しで人を評価しない(可愛い戦争から離脱する)というDの立場に立つことで、容姿における競争的価値観を転覆して、自分らしさを獲得するためにメイク等で美を追求するという道へと進んだ。

これが、轟ちゃんにおける競争的価値観の転覆であった。
こうして、轟ちゃんは、競争的価値観から脱却し、自分らしさの追求としての美の追求という道を獲得したのである。

以上のことから、次のことがいえる。
すなわち、競争的価値観から脱却するためには、一度、その価値観に乗っかって、その価値観において劣位に置かれている状況を打破し、その価値観において評価されるところまで到達した上で、そもそもその価値観自体に価値がないとして転覆する必要があるということである。

しかしながら、競争的価値観から脱却して次の段階へと進めない人たちによって、競争的価値観は再生産される。つまり、価値構造のA(できなくて、コンプレックスを抱えている)からC(できて、その価値観のうちにとどまっている)へと移行し、Cの人がその競争的価値観で他者を評価することで、Aが生まれ、そのAがまた努力してCになり…という連鎖が生まれるのである。
この再生産から脱却するためには、私や轟ちゃんのように、競争的価値観そのものを転覆し、そこから脱却するという道をとらなければならない。
そして、競争的価値観の再生産によって生成している競争的な空間に風穴を開けなければいけない。
そのためには、漠然とおかしさを感じているだけでなく、このような競争的価値観からの脱却の構造を理解して、どのように競争的な空間を変えていくかを考えなければならないだろう。
この論稿が、競争的な空間を変革するための一助になれば幸いである。

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